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あの夏の花火




 寮から遠くに見える街の疎らな灯りにもいつの間にか見慣れて気にならなくなっている。そんなことをふと気付いて、尽は口元を歪めた。
この場所は、はばたき市から電車で数時間。良く言えば長閑と言えなくもなかったが、都会と呼ぶには程遠いような街である。最初の頃は真っ暗な夜というだけで驚いたものだが、人間とは簡単に環境に適応してしまうものらしい。家から離れて一年半弱だというのに、それが当たり前になってきている。
『ちょっと尽、聞いてる?』
 耳元の端末から怪訝な声色が届き、相手に見えないと解っていたが尽は肩を竦めてみせた。
「聞いてるって。こっちの花火大会のことだろ?」
 ベランダの手摺りに身体を軽く預ける。見上げるように空へと視線を向けたら、人工の灯りとは別のチカチカと光るものが目に映った。天然の、しかも極上のプラネタリウムである。
「去年、友達とかと行ったけど結構すごかったよ。そっちのとは違ってたし。こっちは仕掛け花火がメインでさ。打ち上げ花火も海じゃなくて山のほうで上がるんだよ」
 思い出しながら言葉を続けると、回線の先で姉が羨むような声を漏らした。
「なんだよ、見たいなら見にくれば? 何だったらついでにこの辺案内してもいいし」
『ほんと? 案内してくれるの?』
 無理だろうと思って軽い気持ちで誘った尽のほうが、その食いつくような返事に面食らう。一瞬だけ絶句してしまった。
「……マジで?」
『え、なに? 冗談だったわけ?』
 何だか会話が噛み合っていない。だが、それは仕方がないことで思わず苦笑してしまう。
「ごめん、違う。こっちの話っつーか。……ええと、本当に見に来る?」
『うん』
 行きたいと言った彼女は更に継いだ。
『花火もそうなんだけど、いい機会だから尽が普段どんな所にいるか見ておきたいんだよね』
「もしかして、ずっと気になってたりしたわけ?」
 少しドキドキしながら問うと間髪入れずに日輪は力強く答えてくる。
『当たり前でしょ。だって、私、お姉ちゃんだよ? お父さんお母さんの代わりにちゃんと知っておかなきゃって、ずっと気にしてたんだから』
「ああ、うん、そうだよな……」
 相変わらずがっかりしてしまう自分が情けなくて尽は項垂れた。解っているのに毎回これだ。弟はやっぱり弟なのである。
『ちょっと、その声なに? なんか気に入らないの?』
「別に。」
 説明するわけにはいかなくて、その先を無理矢理断ち切った。
『あーもう。別にって、尽はいっつもそうなんだから』
 何やら思うところがあるらしい。ぶつぶつと文句を呟く彼女にこっそり嘆息してから殊更に明るい声で話題を戻した。
「なあ、日帰り? それとも宿とる? うちの寮は家族が泊まれる部屋とかないからな」
『あーそっか、そうだよね。どうしようかな、折角だしどこかのホテル予約してみようかな。駅前にビジネスホテルとかあるよね?』
「そりゃ、ビジホの一つや二つはあるけど。ねえちゃん、一人で取れるのか?」
 若干の不安を声に出すと姉は軽く笑った。
『子供じゃないんだからそれぐらい大丈夫だって。その代わり、ほんとに一日色々案内してよね』
「ハイハイ」
『返事は一回でよろしい。』
 似てないとお互い笑い合って、おやすみと通話を切る。
通話時間が表示された画面を暫く見つめ、尽は小さく拳を作った。理由は何であれ、花火大会を姉の日輪と過ごせることが単純に嬉しい。尽的にそれはデートと同じなのだ。
「完璧なプランを用意しないとな」
 独りごちた言葉に自分でニヤけてしまうのが解る。この顔では当分ベランダから室内へは戻れそうもない。
湿度をまとった温い風を受けながら、尽は溢れ出しそうな気持ちごと端末をきつく握りしめた。




 試験、試験休み、終業式を滞りなく済ました学生達には平等に夏休みがやってくる。勿論、課題等はもれなくついてきたが、それはそれだ。当面は開放的な日常を過ごす学生が殆どである。
尽は寮生活で課題に取り組む時間がきちんと取られているために全力で夏休み気分を満喫というわけにはいかなかったが、それでもいつもよりも浮ついた気持ちを抑えきれずにいた――らしい。と言うのも最初はそれを自覚していなくて、カレンダーに記された花火の文字を見て口元を緩ませたり、鼻歌を歌ったりしているとルームメイトに言われて初めて気付いたのである。無意識にしていたことだから非常にバツが悪い。しかもその指摘は既に両手では足りないぐらいになっているから余計にだ。
一日一日をそんな風に少し焦れったく感じながら過ごすこと数日、やっと約束の日がやってきた。

 はばたき市の花火大会は八月だが、ここの地域は七月の半ば。近隣の街の中で一番早く行われるとかで毎年かなりの人が訪れる。いつもは殆ど人がいない駅前も違う場所になったみたいにすごい混雑して、一年前にそれを経験した尽はただ驚いたものだった。
ぼんやりと思い出しながら人の流れに逆らわずに進んでいると、少し離れた場所に姉の姿を見つける――約束の時間よりも早かったが、待ち合わせの交番前に日輪が立っていた。
声を掛けようとする前に彼女のほうも尽に気付いたようで、笑顔で手を小さく振ってくる。その姿に無性に感動した。
まさにデートだ。
「ごめん、お待たせ。暑かっただろ」
「ちょっと早かっただけだから平気」
 駆け寄った尽に応えてから何故か日輪は小さく笑う。
「何だよ?」
「や、だって、何かデートみたいじゃない?」
「なに言ってんだよ。……まあ、オレもちょっと思ったけどさ」
 そう告げてから手を差し出した。
「なに?」
「なにって。ここら辺、混んでるからはぐれるだろ」
 ただ単に繋ぎたかったとは言えなくて、言い訳じみたことを口にする。それが余計に照れくさくて、尽は姉から視線を逸らした。
「そっか。そうだね」
 言葉と同時にそっと手が触れてくる。暑いのに少しひんやりとしたそれは柔らかくて気持ちがいい。
「尽の手あっつい」
「しょうがないだろ、今日これだけ暑いんだから」
「まあ、そうだけど。ね、これだと更にデートっぽいっていうか、恋人同士に見えそうだよね」
 しみじみとした言葉に体温がまた上がるのを感じた。悟られないようにぐっと手を引き、歩き出す。
「いいじゃん、オレとデート出来るなんてなかなか無いんだし。光栄に思えよ、ねえちゃん」
「何なのそれ」
 呆れたような声を聞きながら、プランを頭の中でちらりと確認した。まずは日輪が好みそうな店のある街の中心部からだ。
「荷物とかも大丈夫そうだし、早速この辺案内してやるよ」
気持ちが急いで今にも駆け出してしまいそうになる自分に尽はこっそり苦笑するしかなかった。


「落ち着いた街だね」
 窓から景色を眺めながらの日輪の感想に尽は口元だけで笑う。
「普段はもっと落ち着いてるんだけどな」
 一息つこうと入った喫茶店も花火のために混雑していて席が空くまで少しだけ待たないといけないようだ。先に渡されたメニューのファイルで風を送るように扇いでやると姉は尽を見上げてくる。
「なんか変なの」
「? 何が」
 意味が分からない。首を傾げると何故か日輪まで一緒の動作をしてきた。
「何だろ、私もよくわかんない」
「何だそりゃ」
 眉が寄っていたのだろう、子供の頃によくしたみたいに指先でそこを彼女が突いてくる。それと同時に店員に呼ばれて尽の思考は一時的に停止した。
「席空いたって。行こ、尽」
「ああ、うん」
 とりあえず疑問は頭の片隅に追いやる。今は考えていても仕方がなさそうだ。
曖昧に頷いた尽は姉に続いてのんびり店の奥へと足を向けた。



「すっかり尽はこの街の人になっちゃった感じがする」
仕掛け花火ナイアガラを行う河川敷の橋の上に陣取って、開始時間を待っていたら姉が不意に呟いた。
もうじき夕方になる時間帯ではあったが、まだ日が高い。花火までに暗くなるか心配になるぐらいであった。
「何言ってんだよ。まだ一年ちょっとしかここには居ないんだぞ」
軽く答えて視線を隣に落とすと何処か物憂げな日輪が目に映る。尽は鼓動が早くなるのを感じた。
あれから――少しのんびり二人で喫茶店でお茶をして、その後に尽の学校を案内したりした。
いちいち何でも珍しそうに聞いてくる姉に得意げに答えたり一緒に考えたりしているうちに、何でもない時間はあっという間に過ぎていった。それは寮に入る前の二人で時間を過ごすのが当たり前だった頃のようで、尽は懐かしくなると同時に胸が苦しくなった。自分で選んで決めたことだから離れなければ良かったなんて思いたくないのに、奥に沈めておいた寂しさや痛みが浮上してきてしまう。
これではいけない。
そう思っていたところだったのに、こんな彼女を見ると余計に揺らいでしまう。
「今だけだろ。また はばたき市に戻るんだからさ」
自分に言い聞かせるように告げた言葉だったが、日輪は納得したように何度も頷いた。そして少し照れて笑う。
「だよね。ごめん、変なこと言って。駄目だなーつい何か寂しくなっちゃって」
「まあ、完璧な弟のオレが側にいないのは寂しくて辛いってのは解るけどな」
「はいはい、そうですねーって、あ!」
 投げやりな声が途中で跳ね上がった。花火が点火されるのを視線の先で知る。姉が笑顔を向けた。周りからも歓声が沸き上がる。
「……すごい。綺麗だね」
徐々に姿を現していくそれに目を奪われた。光の大瀑布とはよく言ったものである。
「近くで見ると迫力あるよな」
「うん……」
どこか上の空で応えてくる日輪に小さく笑って、尽も再び流れ落ちる光に向き直った。
 辺りはいつの間にか暗くなり始めていて。花火本番の時間を迎えようとしていた。




 山の方で行われた打ち上げ花火を堪能すると時間は九時近くになっていた。
 寮監に外出届けは出していて今日は多少大目に見てもらえるはずだが、尽も流石に帰らなければならない。腕時計を恨めしく睨め付けてから、まだ興奮を残した表情の姉へと視線を移した。
「なあ、ねえちゃんが予約したのってどこのホテル? 駅前のやつかな。そろそろ送ってくからさ」
「あ、うん、ありがとう。ええと、なんか駅から少し離れてるみたいなんだよね」
訊ねた尽にメモを探しながら答えてくる。尽が知っているビジネスホテルは全て駅前で、それ以外にもあるとは驚きだ。日輪がそれを探し出したことに純粋に関心する。
「へえ。オレが知らないところを見つけるなんて、ねえちゃんのくせにやるじゃん」
「……なんか引っかかる言い方なんだけど」
 彼女は言って、複雑な表情で鞄の中から紙切れを取り出した。
「そこね、シングルの部屋がないんだって。そういうところもあるんだね。一人で泊まるのに勿体無い気がするけど仕方ないよね」
 シングルがない。そのことに違和感を覚えて尽は動作を止めた。ビジネスホテルでシングルがないことなんてあるのだろうか。
なんだか、おかしい。
「あとチェックインの時間聞いたら特にないって言われちゃった。夕方以降なら何時でも宿泊が選べるとか?」
 そういうシステムもあるんだね、と日輪は無邪気に笑った。
頭痛がする。嫌な予感しかもうしない。
「ホテルの名前もなんか可愛いんだよ」
 ほら、と見せられたメモの文字に尽は項垂れた。嫌な予感ほど当たるのは何故なんだろう。やっぱりと口の中だけで呟く。
「あのさ、ねえちゃん」
 言い辛いが言わないわけにはいかない。
「そのホテル、ビジホじゃない」
「?」
 全く察していないようで、彼女は目を数回瞬かせた。そして首を小さく傾げる。
「ラブホだ」
 沈痛な声で告げると姉はそのまま凍りついた。
暫く、帰ることは出来なさそうである。



「だって、そんなの書いてなかったよ!?」
 姉の必死の訴えに頷いて、尽は長く息を吐いた。
「解ったから少し落ち着け、ねえちゃん」
 言いながら日輪の話を頭の中で整理する。
 尽との約束が決まってから駅前のビジネスホテルに予約しようとしたら既にいっぱいで、彼女はネットで地名とホテルで検索をかけた、ということらしい。そこでオンライン電話帳のようなサイトがヒットし、載っていたホテルに連絡して無事に予約をとることが出来たということである。
 ――別の意味で全然無事じゃないけど、と小さく呟いて肩をすくめた。
「とりあえず、そのことはおいといて。今夜どうするかってことを考えないと。今から帰っても乗り換えの電車にもう間に合わないだろ」
 はばたき市までの路線図を思い描いてこめかみの辺りを引っ掻く。こういう時、距離があると不便だ。
「予約が駄目だったんだから当日のなんて空いてないだろうし……」
「あのさ、尽」
それまで黙り込んでいた日輪がおずおずと声を上げた。少し落ち着きを取り戻した様子であることを確認してから、尽は彼女に目だけで先を促す。
「もうこのまま予約した、その、ラブホに泊まろうと思うんだけど」
「まあ、それが一番現実的かもな」
姉の口からラブホという単語が出る日がくるなんて思わなかった。そんな変な部分に感動に似た気持ちを覚えて同意する。
「で、頼みがあるの」
真摯な瞳が覗き込んできた。ギクリとする。
また嫌な予感がした。
「一緒に泊まって。お願い!」
断るという選択肢を選ばせてくれるような空気ではなくて。尽は項垂れるように頷いた。



さっきまで花火大会であちこちごった返していたのに、ホテル街に入った途端人通りがなくて静かになった。だが、決して人の気配がないわけではなくて、見えない何処かで密やかで熱い息遣いのようなものが感じられる――。特有のそれと一緒にいるのが姉だという事実に尽は頭がくらくらした。信じがたい状況になっている。だが、残念なことに甘やかなものが全くない。
こういう場所に免疫がないのだろう、日輪はすっかり萎縮していた。そのことに安堵しつつ尽は手渡されたメモに書かれた住所へと真っ直ぐに向かう。
「多分、このホテルだと思うけど」
声を掛けると落としていた視線を向けて、姉はそのままで言葉を失った。無理もないと尽は思う。建物としては普通だったが、ここら辺のどのホテルよりいかがわしい感じに煌びやかだったのだ。
「紫とか青とかピンクとでライトアップされてるとなんか一段とイヤラシイよな」
軽口を叩いてみたが、反応がない。気まずい。だが、仕方がなかった。
「入るぞ」
手を引くと軽い抵抗を感じる。尻込みしたみたいに姉の足が止まっていた。冷たいままの手は僅かに汗ばんでいて、緊張がそこから伝わってくる。
にっと笑い、大丈夫だと伝えるように背中にぽんと触れた。
「いいからオレに任せとけって」
いつも通りの軽い口調で告げると少し力が抜けたのが解る。再度手を引いてエントランスを潜り抜けた。
外から見えなかった白く明るい空間が二人を迎え入れる。



「なんだ、意外に中は普通なんだね」
恐る恐る部屋に入った日輪が拍子抜けしたように呟いた。
「何とかマシーンがあるとか拘束する道具があるとか、中にはそういうのを売りにしてるとこもあるけど、大体はこんなもんだって」
「ふぅん」
「あんなに怖がってたくせにがっかりしてんなよ」
「べ、別にがっかりとかしてないよ! ただちょっと見てみたかっただけっていうか」
むきになって否定してくる姉に小さく笑う。すっかりいつも通りだ。
「解った解った。とりあえず寮に連絡するからちょっと静かにしてて」
デニムパンツのポケットから端末を取り出して見せると姉は慌てて口を押さえる。その仕草に頷いて番号を呼び出した。
「あ、東雲です。すみません、帰宅する予定だったんですが、姉が急に体調崩しまして。今夜は帰らないで付いていようと思うんですが。……はい、解りました。ありがとうございます、大丈夫ですので。よろしくお願いします」
失礼しますの言葉の後に通話を切る。自然と正していた姿勢を崩して息を吐き出すと、あちこちを見て回っていた日輪が側に寄ってきた。
「寮監さん?」
「そ。無断で外泊するわけにはいかないからな」
「……ごめん」
しょんぼりした彼女の頭に手を置く。
「これぐらい気にすんなって。ねえちゃん一人だったら辿り着けなかっただろ? まあ、その代わりっていうか、明日一応一筆書いてくれると助かるけど」
わしわしと乱暴に撫でると何度も頷いてきた。
「それは勿論書くけど他にも何かない? なんかして欲しいこととかあったら何でも言って。お礼に何でもするよ」
「何でも……」
言われて思わずダブルベッドに視線を向けてしまい、尽は慌てて首を振る。
「尽?」
上目遣いで見つめられて動悸が激しくなった。これでは色々とよろしくない。
「と、とりあえず、ねえちゃんは先にシャワー浴びたら? 何だったらお湯ためて風呂入ってもいいし!」
「尽が先でいいよ。あ、ねえ、中、広そうだし背中流してあげようか!」
「いいから! ねえちゃんが先! バブルバスとかで楽しんできなって」
半ば無理矢理バスルームに押し込んで、尽はソファに崩れ落ちるように座った。宙を仰いで片手で顔を覆う。
「あー……朝まで理性もつ自信ねぇ」
なるべく考えないようにしているが、場所が場所だ。そこここに「その時」用の物が置いてあって嫌でも目に入って意識させられてしまう。
「オレが普通の弟だったらこんなの何でもないのに」
呟いてしまった言葉に唇を噛み締めた。それはもう今更だ。言っても、考えてもどうしようもない。
「尽ー出たよー」
雑念を振り払うように頭を振って、呼ばれるまま何気なく視線をやってしまって後悔した。バスローブだけという凶悪な姿の姉がそこにいたのである。
無防備に開き気味の胸元は白く、短い裾から見えた腿はすらりとして細い。軽くまとめた髪の毛の先からこぼれた滴がきらきらと一瞬だけ輝いて余計に彩を添えたみたいに綺麗にみえた。
最高だが、最悪である。
「なんつー格好してんだよ!」
慌てて顔を反らしたが既に脳裏に焼きついている。血が一部に急速に集まっていくのが解った。
「仕方ないでしょ。着替えとかは全部鞄の中だったし」
あっさり言ってペタペタと素足のまま横を通り過ぎる。そのままベッドの上にあった浴衣を広げているようだった。
「どっちも同じサイズっぽい。フリーかな」
はい、と一枚を目の前に差し出してくる。その拍子にバスローブが緩んで中身が見えた。
「っオ、オレもシャワー浴びてくる!」
「ああ、うん、いってらっしゃい?」
勢いよく急に立ち上がった尽にびっくりしたのだろう、不思議そうな声音である。だが、尽はそれに応える余裕はなくて、ただ前のめり気味に足早にバスルームに向かうしかなかった。



「ふぅ……」
長く息を吐き出しながらドアを開けると姉が不満げな声を掛けてくる。
「尽遅い」
「い、いいだろ、普段そんなにゆっくりシャワーとか浴びられないんだし」
上擦ってしまった言葉に、しかし彼女は納得したみたいだった。それもそうかと頷いて浴衣姿で黄金色の液体の入ったコップを傾けている。
「……って、何飲んでるんだよ?」
「ん? ビール」
「そんなもん持ってきてたのか?」
「違うって。冷蔵庫あけたらウェルカムドリンクで入ってたの」
言ってビンから注ぎ足した。溢れ出そうになる泡に慌てて口をつける。
「オレのは?」
「未成年は駄目。残さず全部私が頂きますので」
「なんだよそれ。ずるくない?」
「ずるくなし」
美味しそうにビールを口をつけてから日輪は悪戯っぽく笑った。
「ミネラルウォーターも入ってたから尽はそれね」
「ちぇー」
面白くなさげに応えて備え付けの小さい冷蔵庫に手を伸ばす。確かにペットボトルが入っていた。
「あと数年で尽だって普通に飲めるようになるんだから、急がなくてもいいじゃない」
抑揚のない口調のそれに目を瞬かせる。何だかいつもと違う気がした。
「ねえちゃん?」
呼び掛けると既にいつも通りの彼女は返事の代わりに首を傾げる。尽は緩く頭を振った。気のせいだったのかも知れない。
「変な尽」
言って手元のリモコンのボタンを日輪は弾く。あまりに何気なくて尽はそれをスルーしてしまったが、その動作がもたらすことに気が付いた。やばい。そう思った時には既に遅くて大画面のテレビに裸で絡み合う男女の姿が映し出され、喘ぎ声がその場に満ちていた。
呆然とした姉の手から半ばひったくるみたいにしてリモコンを奪って電源を切る。しかし、気まずさは消せない。言葉が見つからなくて無言でベッドに腰掛けた。
「……思ってたんだけどさ、尽ってこういう場所とかそういうことに慣れてる、よね?」
「別にそんなことないだろ」
硬い声に曖昧に返事をする。話題を変えたいのに思い付かなくて再び沈黙が流れた。
「「あ、あの」」
同時に口を開いて、見詰め合う。暫くして、どちらからともなく吹き出した。
「おかしなことになってるよね」
「ほんとだよ」
ベッドに倒れこんだ尽の隣に日輪もころんと転がってくる。内心ぎょっとしていると彼女は満面の笑みを浮かべた。
「ふふ、尽と一緒に寝るなんて何年ぶりだろ」
「いや、オレはソファで寝るけど」
「なに言ってるの。駄目だよ、そんなとこじゃ寝れないでしょ」
こっちのが寝れないんだけど、と反論したかったが諦める。肩をすくめて見せるだけした。
「折角なんだから、色々なこと話したいじゃん。ね、なんか話して?」
「なんかって言われても。つか、ねえちゃん酔ってきてるだろ」
さっきの諸々を忘れてすっかりご機嫌な様子の姉に嘆息する。いつもより飲むペースが早かったせいもあるのではないかとちらりと思う。
「酔ってないって。平気平気」
「酔っ払いって絶対酔ってないって言うよな」
「いいから、お話して。何でもいいから。ね?」
子供かよ、と呆れながら笑って、尽は少しの間だけ思案した。酔っ払っている今なら――言ってもいいかも知れない。そう意を決して口を開く。
「じゃあ、オレの友達の話な。ねえちゃんだったらどう思うか教えてよ。意見聞かれてて、どう答えたらいいか解んなくてさ」
前置くと彼女は興味深そうに頷いた。
「学校の友達なんだけどさ、そいつにも姉ちゃんがいるんだって。で。どうも本気で好きになっちゃったみたいなんだよな」
痛いくらいに早まる鼓動を隠して、他人事に聞こえるように淡々と話す。
「好きって、お姉さんのこと?」
「そう。家族として姉としてじゃなくて。もう一人の女としか見れないって」
どう頑張っても。別の人を見ようとしても無理で。
「でも、そんなこと言えないじゃん? 苦しくて辛くて、どうしようもないって。だから、どうするべきかって聞かれたんだ」
尽は無意識に胸を押さえていた。息が震えそうになる。
「それは……難しいね」
うん、と一度頷いてから日輪は尽を見つめてきた。
「姉の立場からの意見になるけど。私だったら、弟が、あんたが一人で辛い思いをして苦しんでいるんだったら、知りたいって思うよ、多分」
「知ったってどうも出来ないだろ。ねえちゃんだって苦しむことになるだけじゃない?」
「そうかもしれないけど。だからって、知らないままでいるよりはいい。自分に関わることなんだし、あんたのことも大事だもん」
そこまで言ってから、彼女は困ったように笑う。
「結局さ、そのお姉さんと私は違うから解らないとしか言えなくなるんだよね。尽とか私が無責任にこうしたほうがいいとかも言っちゃいけないと思うし。難しいな、ほんと」
「そう、だな」
ゆっくりと尽は息を吐き出した。否定や拒絶ではなくて、日輪らしい優しさがただ嬉しい。だからこそ、巻き込みたくないと思ってしまう。
「尽もどうするべきかは答えられないけど、話は聞くよって言えばいいんじゃないかな」
 そう纏めてから、視線を揺らした。
「でも実際さ、もし尽がそういう風なことを言ってきたら、違う意味で困るかもね」
「何だよそれ」
「何でもないよーだ」
くすくすと笑って枕に抱きつく。それ以上は答えてきそうもなかった。諦めて尽はため息をつく。
「その友達もお姉さんも……誰も悲しくならないで幸せになれる方法が、見つかれば、いいのに……」
唐突に寝息が後を引き取った。寝付きの良さに苦笑して、酔っ払いはこれだからと独りごちる。
「そんな夢みたいな方法があったら知りたいよ」
囁いてそっと頬を指先で撫でた。むにゃむにゃと何やら言って幸せそうに眠る彼女にゆっくりと口付ける。
「おやすみ、ねえちゃん」
 場違いなほど静かに夜は更けていく――。




「いつまで拗ねてるんだよ」
ホテルを出て駅に向かう途中にあったコーヒーショップで朝食をとりながら、尽はむっつりとした顔をしてる姉に呆れた視線を投げた。ついでにハムと卵のサンドイッチにかぶり付く。
「一緒に寝るって言ったのに、ソファで寝た尽がいけないんじゃん」
日輪はカフェ・ラテに口をつけてからチョコチップがたっぷり入ったマフィンに手を伸ばした。
先に起きて誤魔化そうと思っていたのに、気がついたら既に不機嫌な日輪が目の前にいた。考えてみれば、なかなか寝付けなかった尽よりも早めにぐっすり寝ていた日輪のほうが先に目を覚ますのも当然である。
「だから悪かったって言ってるだろ」
「……なんか尽ってたまにすごく余所余所しいっていうか、私のことお姉ちゃんとして扱わない時がある気がするんだよね。嫌われてるって感じじゃないし、むしろ大事にされてるんだと思うんだけど」
鈍い姉にそんなことを言われるとは思わなくて尽はたじろいだ。そんなにあからさまに態度に出ていたのだろうか。
「でも、尽がそんなだと私……」
何かを言い掛けて、自分で驚いたみたいに口を押さえる。尽は眉を寄せた。
「と、とにかく。私が拗ねるのも仕方ないってこと。わかった?」
「よく解んないし。途中まで言ったこともすげー気になるんだけど」
ずいっと顔を寄せると、日輪は口いっぱいにマフィンを詰め込んでそっぽを向いた。そのままもごもごと何かを言うが半分以上理解は出来ない。
「……あのさ、とりあえず飲み込んだら?」
「――悪かったとか思ってるなら、尽ははばたき市の花火大会に一緒に行くべきだと思います」
 ごくんと飲み込んでから何事もなかったみたいに繰り返し告げてくる姉に、尽は堪え切れなくなって吹き出した。
「それで機嫌直してくれるなら喜んで」
 止まらなくて喉の奥で笑いながらの返事に少し日輪は憮然とする。しかし、満足げにようやく笑った。
「じゃ、決まりね」
「うん。で、何を言いかけたんだ?」
「しつこいよ。オトナの女には秘密の一つや二つや三つぐらいあってもいいものなの」
「へえ? オトナ、ねえ?」
 口元についていたマフィンのかすを指先でつまんで大仰に息を吐いてみせる。日輪は一瞬で赤くなった。
「い、意地悪。馬鹿尽」
 誤魔化された言葉の先は今日のところはこれで見逃すことを決めて。尽は聞き馴染んだ台詞に口元を綻ばす。


 はばたき市の花火大会まであと二週間弱。
 焦れったいぐらいの何でもない夏の日々が、また始まりそうである。