遠距離姉弟
side s
当たり前にあったものがなくなる。それがこんなに寂しいとは思っていなかった。
自分以外に誰もいない家、そのリビングのソファに一人座って日輪は嘆息する。目の前のテーブルに置いた弁当は、買ってきた袋に入ったままで冷え始めていた。こうなる前も今のように一人で食事をとることはあったが、明らかにそれとは違くて、ひどく味気なく感じてしまう。どうしても食欲がわかなかった。
「……誰かと食べに行けば良かったな」
無意識に零れた言葉にはっと気付いて頭を振る。こんなことではいけない。この状態になってまだ数ヶ月しか経っていないのだ。
ちら、と側に置いた携帯端末に視線をやる――が、それは沈黙したまま何も変化はない。再度の重い溜息と共に、彼女は徐に袋に手を伸ばした。のろのろとした動作で簡易的に包まれたプラスチックの弁当箱を開ける。
「いただきます」
湯気の立たなくなったそれを見据えてから、誰にともなく告げて割り箸に力を込めた。乾いた音をたてたそれは半端に折れた形へと姿を変える。
日輪は口の中だけでついた悪態を、冷めたご飯ごと無理矢理に飲み込んだ。
*
「ねえ、ちゃんと栄養摂ってる?」
心配げな眼差しに、紅茶のカップをソーサーに戻して日輪はテーブル越しの有沢に頷く。
「摂ってるよ? さっきだって一緒にお昼食べたじゃん。今だってケーキ食べてたの目の前で見てたでしょ」
空になった皿を指し示して笑うと、有沢はそうだけどと肩を竦めた。
大学にほど近い場所のカフェのテラス席に向かい合って座り、急に空いた時間を二人で過ごしている。お昼には遅く、お茶をするには少し早いという微妙な時間のせいか、人はいつもより疎らだった。ざわめきの少ない店内から、落ち着いたBGMが耳に良く届く。
「前に比べて痩せたというか、やつれたように見えるから」
「そうかな」
自覚症状は全くない。全身を確認するように見回した日輪は軽く首を傾げた。
「あなた自分のことには色々無頓着だから気になるのよ」
ずばりと言われて低く呻く。そんなことないと否定出来れば良かったが、過去にあった諸々のことを思い出すととても言えなかった。
「尽くんが居れば心配しないけれど」
続けられた何気ない言葉に小さな痛みを覚える。それを隠してカップの縁を指で弾いた。表情を引き締めるみたいに視線を上げる。
「尽なんか居ても居なくても変わらないよ」
「……分かり易いわ本当に。尽くんからの連絡はまだないのね」
苦笑混じりで言った有沢はハーブティのカップに手を伸ばした。
「音信不通気味になってるのは全寮制の高校に入ってからだから三カ月ぐらいでしょう? 気になって仕方ないみたいだし、そろそろ東雲さんから連絡してみても良いんじゃないかしら」
「気になってって、別にそんなでもないよ。用事だって、特にないし……」
強がりが最後まで続かない。その分、弱音が溢れてきそうになって、情けなさに日輪は項垂れた。
「そのままを言えばいいのよ、気になったから連絡したって。姉弟なんだから心配するのは当然のことだと思うわ」
「そう、なんだけど。なんかこう、姉のメンツとかプライドとかそういうのがあったりもするというか。尽は絶対平気そうだから余計に何かアレというか」
しどろもどろになりながら返すと有沢は大仰に息を吐く。視線だけを上げると呆れ顔があった。
「平気ってことはないと思うけど。そんなこと言ってるとずっとこの状態が続くわよ」
彼女は更に続けてくる。
「それに尽くんはあなたからの連絡を待ってる気がする」
「待ってる?」
「ええ」
自信を持ってしっかりと頷いた有沢に日輪は目を瞬かせた。どうして彼女がそこまではっきりと解るのかが解らない。
「それは志穂さんの勘なの?」
「勘ではなくて感、かしら。私は少しだけだけど知ってしまったから」
「どういうこと?」
返ってきたのは困ったような顔だけで、それに答えはなかった。釣られて困惑を浮かべると、有沢は一度肩を竦めてからいつも通りの表情に戻す。
「今夜なら明日は土曜日だし丁度良いんじゃない?」
背中を押すようなその言葉に、日輪は躊躇って――やがて小さく頷いた。
微かに音を立てる時計を睨み付ける。今は夜の九時をいくらか過ぎた辺りを針が指していた。寮の門限は確か八時で、例え出掛けていたとしても戻って来ていなければそれはそれで問題な時間である。尽なら寝ているということもないはずで、日輪は一つ頷いた。
ベッドの上に転がっていた端末に手を伸ばして、息を吐き出す。覚悟を決めて電話帳から尽の番号を選択した――軽く指でタップすると軽快な発信音が響いてくる。
『もしもし』
ぷつ、と僅かに入ったノイズと共に聞き慣れた声が回線を通って届いてきた。尽だと認識した頭は、瞬間的にごちゃ混ぜの感情で埋め尽くされて真っ白になる。
『ねえちゃん?』
「……うん、ええと、その」
驚くぐらいに言葉が出ない。慌てて言いたいことを纏めようとしたが、余計に混乱するばかりだった。こんなはずじゃなくて、どうしようもなさに涙が溢れて滑り落ちる。
『どうしたんだよ。何かあったのか?』
「別に、何もない」
『何もないわけないだろ。だって、泣いてるし』
「!」
気付かれてしまった。姉としての矜持が音を立てて崩れていくのが解る。
「つ、尽の馬鹿!」
そう反射的に叫んで、日輪は通話をつい切ってしまった。これでは何のために電話したのかさっぱり解らない。尽は勿論のこと、日輪自身もである。
「ああもう、馬鹿はどっちよ……」
呻いて、ベッドに倒れ込む。自己嫌悪と疲労感に頭痛がした。本当に情けない。
ぐすぐすと鼻をすすりながら、日輪は足下にあった布団をたぐり寄せて、逃避するみたいに思い切り潜り込んだ。
*
『ねえちゃん、起きろよ。もう昼近いぞ』
少し前まではいつものように聞いていた起床を促す声が聞こえた気がした。もう懐かしくすら感じるそれは起きたら消えてしまうはずで、日輪は抗うみたいに寝返りを打つ。
どうせなら、もう少しだけこのままでいたい。
「いつまで寝てるんだよ。ひとが折角帰ってきたっていうのにさ」
ぼやくような言葉は今度ははっきりと聞こえてきた。夢にしてはおかしい。身体の向きを戻すのと同時に、日輪は勢いよく目を開ける。
「尽……」
「やっと起きたか、ねえちゃん」
応えるようにわざとらしく肩を竦めてみせてから、にやりと笑ったのは紛れもなく弟の尽だった。数ヶ月ぶりのその姿はあまり変わっていなくて、何となく日輪を安堵させる。
「何で」
呆然と呟くと半眼が返された。ついでに頭にチョップも降ってくる。
「あのな、あんな電話されたら何かあったのかって気になるだろ。掛け直しても電源切ってるし、家電のほうは出ないし、ついでに父さん母さんも掴まらないし」
痛みに眉を寄せながら、ベッドの上で座るように上体を起こした。尽はそんな日輪から視線を外さずに胸の前で腕を組んで更に続ける。
「仕方ないから朝一に寮監のところに行って外出届け出して、電車に飛び乗って帰ってきたってわけ」
一度そこで息を吐いた。それから、隣にどさっと腰を下ろしてくる。
「心配したんだからな」
覗き込んできた瞳からも言葉通りのものが伝わってきて、日輪は反射的にごめんと返していた。尽がそれに構わないと言うみたいに笑う。
「今の様子だと大丈夫そうだから安心出来たし、気にしないでいいよ。……オレだって敢えてずっと連絡してなかったから心配かけてただろうし。チャラだろ、これで」
「……ちょっと待って。敢えてって何よ。わざと連絡してこなかったってこと?」
聞き流しそうになったそれに日輪が眉をひそめると尽がしまったと顔を顰めた。きつく睨み付ける。
「尽?」
「ごめん。でも、ふざけてとかじゃないよ。オレなりに理由があって敢えてってことだから」
「理由って何」
「言えない」
静かな表情にそれ以上は語るつもりがないことが解った。言いたいことも聞きたいこともいっぱいあるが――勝手だと怒鳴り出したい気持ちを姉だからという呪文のような言葉でぐっと押さえ込む。だけど、ふくれっ面になるのは止められなかった。
「尽はずるいよ。いつもそればっかり。遠くの学校に行った理由も結局それで教えてくれなかったじゃない」
「まあ、そう言われちゃうと確かにそうなんだけど。そのうち言えたら言うって」
打って変わった軽い口調に、どうだかと応えて隣に並ぶ肩に頭を預ける。
「ねえちゃん?」
びっくりしたような声に少しだけ溜飲を下げたが、まだそれでは全然足りない。日輪はそのままで頭をぐりぐりと強く押し付けた。
「な、なんだよ。痛いって、ねえちゃん」
目が若干回ったのを威厳のために隠して姿勢を戻す。
「痛くしたんだから当然でしょ」
刺々しく返してから、戸惑ってる表情の弟に強気に笑ってみせた。
「仕方ないから、今回はこれぐらいで勘弁してあげる」
唖然とした弟は一瞬後に吹き出した。可笑しくてたまらないみたいに笑いながら「そりゃどうも」と言ってくる。その笑顔が嬉しくて日輪もそこでやっと相好を崩した。
「ねえ、尽」
呼び掛けた声に顔だけを向けてくる弟に。
「おかえりなさい」
久し振りで少し照れが入ってしまったが、その言葉を告げる。
*
「そうじゃないかと思ってたけど、やっぱりな」
日輪の部屋からキッチンへと場所を移しての尽の一言目がそれだった。使っていないのがすぐに解ってしまったようで、誤魔化すように日輪は鼻歌を歌ってみる。
「自炊しろとは言わないけどさ、もうちょっと食べるものに気を付けろよ、ねえちゃん。今はまだ若いから良いけど、こういうのは後から来るんだぞ」
「わ、解ってるもん」
「解ってたらこんなインスタントばっかりの生活にならないだろ」
ゴミ箱を一瞥してから疲れたように言って、尽は冷蔵庫を開けた。がらんとした中身に更に嘆息してくる。
「ちゃんと卵と牛乳はあるでしょ。あとは丁度なくなったところだもん」
「あー、はいはい、そうですねー」
取り合わず、確認するみたいに尽はあちこちの棚を開けていく。もう観念するしかない。
「……最初のうちは頑張って作ってたよ。けど、一人だと色々面倒くさくなっちゃったんだもん」
「そうだろうけど。これだとオレだけじゃなくて周りも心配するぞ」
「志穂さんには痩せたって言われた」
「もう心配かけてるってわけか」
呆れたような声音の弟は、棚の片隅から何か袋のようなものを見つけ出した。これでいいかと呟いて振り返ってくる。
「オレもまだ何も食べてないし、作ってやるから一緒に食べようぜ」
まだまだ小言が続くかと思っていた日輪は拍子抜けして瞬いた。それに気付いたように尽は苦笑する。
「あのな、オレだって久し振りに会って説教ばっかりするのは嫌なんだよ。いいから着替えてこいって。一日パジャマで過ごす気なのか?」
早く早く、と以前と同じように急かしてくる弟にくすぐったい気持ちになって、それを隠すみたいに日輪は台所から飛び出した。
身支度を整えて二階の自室からキッチンに戻ると、既にブランチの準備は出来ていた。テーブルに並んでいたのは焼き立てのホットケーキ、それに紅茶で日輪は尽に視線を向ける。
「何も無かったから、これしか出来なかったけどいいよな。まあ、駄目でも何も無いから仕方ないんだけどな」
大事なことだとでも言いたげに二度繰り返されて唇を尖らせた。しかし事実は事実で、文句は言えない。
「ありがとう、イヤミ尽」
「誰が何だって?」
「別になにも?」
とぼけるみたいに視線を逸らしたら軽く額を指先で弾かれた。痛みに視線を戻すと尽が得意げに笑う。
「冷めるぞ、ねえちゃん」
「うん」
あたふたと席につくと尽も対面に座った。促すような目に、いただきますと手を合わせて熱々のホットケーキをナイフで割って口に運ぶ。少しだけ舌を火傷したけれど、甘くてふんわりとしていて、とても美味しい。
「な、なんで泣くんだよ」
「あれ?」
言われて気付く。盛大に頬を伝う涙はむしろ可笑しくなるぐらいで、手の甲で拭って思わず笑ってしまった。
「ごめん。家で誰かと何かを食べるの久し振りだし、美味しいし、それでかな。……思ってた以上に私は一人って寂しくて駄目みたいだよ。お姉ちゃんなのにね」
「別に駄目じゃないだろ。オレだってずっと寂しかったし」
「へえ? 敢えて連絡してこなかったのに?」
意地悪げに言うと尽が言葉を詰まらせる。それに小さく笑った。
「……そりゃ確かに連絡しなかったけどさ」
「もしかして待ってた?」
「まあね」
認めるように頷いて紅茶をすする。それにふーん、と鼻で返事して、有沢の感というのが合っていたことに感心した。
「よく分かんないけど、尽は捻くれてるけどお姉ちゃん大好きってことなんだよね、要するに」
気管にでも入ったのか、尽が激しく噎せる。大丈夫か問うと涙目になって恨めしげに睨んできた。肩を竦める。
「いいじゃん、私もそうなんだなって離れて解ったし」
ね、と同意を求めた日輪に尽は投げやりな返事だけを返してきた。それを不満に思ったが、そういえば難しい年頃であることを今更ながらに気付く。これはもしかしなくても照れているのかも知れない。
「そっか、尽も大きくなったんだねぇ」
「今度はいきなり何なんだよ!」
うんうんと頷いてから、紅茶を一口。良い香りが広がって、それだけで心が軽くなった。
「意地張ってないで、ちゃんと私も大人にならなきゃね。これからは連絡もいっぱいするよ」
明後日方向の思考だと気付かないままで、日輪は満面の笑みで告げる。尽は力も言葉も失って、ただがっくりと項垂れた。
*
「そんなわけで。心配かけちゃったけど、もう大丈夫だから」
力強く宣言する日輪に有沢は曖昧に頷いた。何を言ったらいいのか解らないみたいに躊躇って、やがて良かったわね、とだけ返してくる。こっそり尽に同情したのを日輪は気付かない。
土日を終えて、月曜日。昼食をとるために中庭に出てきた二人は日陰のベンチを選んで並んで座る。夏本番には少し早くて暑さにはまだ余裕があった。有沢はパン屋で買ったらしいサンドイッチを、日輪は食生活を早速改めようと作った弁当を膝の上に広げる。
「ずっと一緒に居たら気付かないことっていっぱいあるなあ。近すぎて逆に見えないってことなんだろうね」
しみじみと思ったことを口にすると有沢は目を細める。
「そういうことが解ってきたなら尽くんも離れた意味があるわね」
「……あのさ、思ってたんだけど。何か私より志穂さんのほうが尽のこと解ってるみたいじゃない? もしかして好きなの?」
「それは違うから!」
焦って声を高くする彼女に冗談だってと笑って、日輪は卵焼きを口に運んだ。見栄えはイマイチだったが、味はまあまあである。
「やっぱり離れているのは寂しいけどさ、でも、それは私だけじゃないって分かったし。あと、尽は何かあったら飛んできてくれそうだからいいかなって思うことにした」
「大人になったのね」
「まあね」
笑い合って空を仰ぐ。寮に戻る時にされた仕打ちはまだ少し悔しかったが、それでも。
次に会う時は姉らしく笑顔で弟を迎えることが出来そうだ。
夏休みになったら、また尽が帰ってくる――。
*******
side b
全寮制を選ぶ理由は様々だ。まず、学校に魅力を感じて必然的にと、というもの。次に寮生活に何らかの期待や憧れをもって、というものだ。希にそれ以外の理由を持つ生徒もいるようだが、あまりそれを公言するものはいない。説明出来ない、もしくはしたくないことが多いのかも知れない。少数派側に入ってしまっている尽は何となくそう思う。
『東雲はなんでここに決めたんだ?』
入学当時は当然クラスでも寮内でもその質問があったが、それにはいつも適当に答えてかわしていた。本当のことなんて言えるわけがないのだ。実の姉が好きだから離れるために寮に入ったなんて。
「東雲、目ぇ開けて寝てないか?」
ルームメイトの早乙女に声をかけられて、取り留めのない思考から引き戻される。今は夕食後の自室自習の時間で、宿題として出された数学の問題を解いているところだった。広げられたノートには数式が途中で途切れたままになっている。
つい、いつものように姉のをことを考えてしまっていたようだ。
「やべ、難しくて意識飛んでた」
苦笑して応えた尽に早乙女が同意するみたいに肩を竦める。
「早く片付けて楽になろうぜ」
言うが早いか問題を解く作業へと戻った彼はぶつぶつと口の中で何かを呟いたり唸ったりと忙しくなった。尽は気付かれないように小さく息を吐く。
離れることで自分は何が変わるか、姉の日輪はどうなるか知りたかった。側にいるだけでは姉弟としてずっと同じ毎日があるだけで――それはそれで幸せであったが、尽はもう耐えられなくなっていたのである。
日に日に大人になる姉に置いて行かれるという焦燥感と強い渇望が行動を起こさせた。
「なんかバイブの音しない? 電話?」
「あー、悪い。オレのっぽい」
回転式の椅子ごと身体を向けてきたルームメイトに慌てて返して、鞄に入れたままになっていた振動を伝えてくる端末を引っ張り出す。そのまま尽は手のひらに収まったそれへと視線を落とした。
「!」
着信として表示されていた名前は姉で、一瞬息をするのを忘れる。
「? なんだよ、出ないのか?」
不審げな早乙女にいつも通りを装って笑い、尽は端末を持って部屋からベランダへと出た。震える指先で液晶をタップする。
「もしもし」
鼓動が勝手に早くなり、声も上擦り気味になる。だが、それも仕方ないと思えた。本当はいつだって声が聞きたかったのに、電話することすら必死に我慢して距離を作ってきたのである。
「ねえちゃん?」
呼び掛けに何処かぎこちなく応えてくる声は表示通りに姉のもので、久し振り過ぎてそれだけで切ない。もっと聞きたくて言葉を繋げると、息が、声が回線の先で震えたのが分かった。
泣いている。
びっくりして思った通りを口にした途端、馬鹿の言葉と共に通話が切られてしまった。端末を握りしめたまま、尽は呆然とする。
姉に何かがあったであろうことと、怒られたことだけは理解出来たが、それ以上はさっぱりであった。焦って掛け直してみたけれど、電源が切れていると機械的なアナウンスが入るだけだった。家の電話に掛けても出る気配はない。ついでに両親のほうへと掛けてみたが、これも駄目だった。
舌打ちして前髪を掻き上げる。はばたき市があるほうに視線だけを向けて、唇をきつく噛み締めた。距離がもどかしい。
「……帰らなきゃ」
譫言のように呟きながら足早に部屋の中へと戻った尽は、鞄から財布を探り出した。デニムパンツの後ろポケットへと押し込んで入れる。
「電話終わったのか……って、ちょっと待てよ! 今から何処かに行くつもりか!?」
尋常でない様子の尽に椅子から立ち上がった早乙女がドアを遮るように手を広げた。
尽は無言のまま彼に退けるように鋭い視線を向ける。
「ああもう、とりあえず落ち着けよ。今から駅に行っても終電には間に合わないだろ」
寮から駅までは通常ならバスで一時間弱だ。しかし、この時間にバスはもう走っていなくて、辿り着く方法が徒歩しかなくなる。徒歩だと当然時間は更にかかって、ただでさえ終電の早い路線のため間に合わなくなるというわけだ。
思い至って、尽は顔を顰めた。
「本当に差し迫った緊急の用件なら寮監に言って何とかするべきだと思うけど、そうでないなら朝まで我慢するしかないと俺は思う」
冷静なルームメイトの言葉に尽は宙を仰ぎ、やがて、長く息を吐き出した。とても気になるし、すごく心配だが、今すぐと思うのは尽の気持ちが抑えきれなくなっているからにすぎない。
「……そうだな、悪い」
言ってベッドに腰を下ろす。一人で泣いているかと思うと気が急ぐが、どうしようもなかった。
「何かあったのか?」
もう大丈夫だと判断したのだろう、早乙女は椅子に座り直して聞いてくる。しかし、尽は答えられなくて曖昧に笑った。
「まあ、言いたくないならいいけどね。でもお前、そういうこと多いよな」
「イイ男はミステリアスなほうがいいだろ」
「あーはいはい何でもいいよ、もう。宿題宿題、と」
はぐらかすように軽口で返すと、呆れた素振りで背を向けてくる。それで質問を終わらせてくれたことを理解って、内心尽は感謝した。クールダウンするみたいに仰向けに寝転がる。
ねえちゃん。
声に出さないで呟く。脳裏に浮かぶ顔がさっきの声と重なって、泣き顔になった。何も出来ないのが悔しくて胸が苦しい。
「何でオレここに居るんだろ」
思わず漏れた独り言に、ルームメイトの椅子が軋んだ音を立てた。
「何を今更。自分で選んだからだろ」
肩越しに振り返った彼と視線がぶつかる。確かにそうだ。納得して頷くと可笑しそうに吹き出したのが見えた。
「何だよ?」
「いや、ごめん。東雲って何だかんだ言っても結構素直だし、雰囲気が似てるから思い出しちゃって」
「思い出すって何を?」
「うちの飼い犬のポチ」
得意げに告げてくる彼の顔面に、無言で投げた枕がヒットする。
少しだけ気が紛れたのは悔しいから言わないでおいて、尽は朝から動けるように準備を開始した。
焦れったくなるぐらいにゆっくりと夜が更けていく。
朝一番に寮監の元へ行った尽は、姉の調子が悪いため様子を見に行きたいと告げて外泊届を提出した。正しい理由ではなかったが、あながち嘘でもない。尽の必死の形相も手伝ってか、すぐにそれは受理された。両親が不在がちで、姉弟二人きりであるというデータを寮監が持っているせいもあるだろう。
少しの時間すら惜しんで出掛けていく尽を、食堂へ向かうついでにルームメイトは余計な言葉つきで見送ってくれた。
「行って来いポチ」
「誰がポチだよ」
嗾けるみたいに背中を思い切り叩いて悪戯っぽく笑った彼を尽は睨み付ける。しかし、まるで堪えていない様子に諦めて、まったくと息を吐き出した。踵を返す。
「んじゃ、あと適当によろしく」
「おー。土産待ってるからな」
応える代わりに手をひらりと振った尽は、寮のすぐ近くにあるバス停留所をまず目指した。
*
久し振りに乗る電車は土曜の早朝のせいか、殆ど人がいなかった。閑散とした車内で吊革広告をぼんやりと眺めてから、尽は窓の外へと意識を向ける。長閑な景色は春の時とは少し違って、夏の色に変わり始めていた。
「三ヶ月とちょっとか」
独りごちて苦笑する。随分長い時間だったように感じていたが、実際はまだそれだけなのだ。高校三年間というのは途方もなく長い期間のように思える。溜息が漏れた。
離れて変わったことは今のところ特にない――離れる前よりも更に気持ちが強まってしまったが、それは変化のうちに入らないだろう。ただ、声を聞いただけであんなに嬉しくて胸が痛くなるとは尽自身も思っていなくて驚いたのだが、それはまた別のことである。
冷静に分析したが、尽は何だか可笑しくなってくる。小難しく考えても結局は姉が好きだという結論が出ただけだったからだ。
「まあ、オレなんてそんなものだよな」
頭の後ろで手を組んで、唇だけで笑う。この気持ちは昔からずっと変わらない。
「自分でもどうしようもないし」
口の中だけで呟いて甘受するように頷いた。理屈じゃないのは疾うに解っているのだ。
尽の募る想いを余所に、電車は山の風景を車窓に写しながら緩やかに進んでいく。
海の町である、はばたき市はまだまだ遠い。
*
少し軋んだ音を立てる門扉を押し開ける。もどかしくなりながら玄関の鍵を開けた尽は、自分の家のにおいに迎えられた。帰ってきたことを改めて実感する。
朝というには既に遅めの時間だったが、誰かが起きている気配は全く無かった。耳を澄ましても外から入る音が微かにするだけである。
スニーカーから足を引き抜いた尽は、廊下を突き当たりまで進んで二階への階段を上った。一番奥の、姉の部屋のドアの前に立つ。一瞬だけ躊躇って、そのまま無言でノブを引いた。
カーテンが閉められていない部屋は廊下より明るくて、眩しさに尽は軽く目を細める。庇うように手を翳してから視界を窓からベッドへと移すと、部屋の主が日の光など全然気にしていないみたいにそこで健やかな寝息を立てていた。
「ねえちゃん」
呼ぶ声が震える。がむしゃらに触れたい衝動を辛うじて堪えて、そっと髪の毛の束を掬い上げた。それを唇に押し当てる。愛おしさが募り、触れたい気持ちが溢れて零れた。息が掛かるぐらいに顔を寄せ――尽は柔らかい姉の唇に一瞬だけ触れる。
好きだよ、ねえちゃん。
飲み込んだ言葉が体内で暴れるみたいに痛くて苦しい。尽は暫く動くことが出来なくて、胸の辺りを必死に拳で押さえつけた。
弟の顔を貼り付けられるぐらいまで回復したのは、結局それから三十分ぐらい経ってからだった。その間も日輪は全く目覚める気配はなくて、尽は呆れると同時にほっとしていた。眠りが深いのはこういう時だけは助かる。
苦笑を刻んだ口元を引き締めた尽は、枕元の時計を見てから小さく咳払いをした。そして、突として声を張り上げる。
「ねえちゃん、起きろよ。もう昼近いぞ」
もぞもぞと寝返りだけを打った姉はまだとても起きそうもない。寝起きは相変わらず悪いようだ。仕方なく息を吐いて尽はわざとぼやくみたいな声を作った。
「いつまで寝てるんだよ。ひとが折角帰ってきたっていうのにさ」
びくんと反応を示した日輪に小さく笑う。どうやら上手くいったようだ。
身体の向きを戻して見上げてくる瞳に生意気な弟の素振りを見せながら、尽は姉の様子を探り始める。
変化があることを前よりも強く望んでいた。
*
ホットケーキを食べながら吐露された姉の胸の内は『寂しい』ということだった。電話をしてきた理由もそういうことだったようで、納得すると同時に複雑な気分になる。尽も寂しいのは一緒だったが、日輪のものと尽のものは似ていても違うのだ。
まだ全然弟としてしか見て貰えてなくて、どうしようもないと思いつつも表情に出さずに落胆する。
でも、と思い直すみたいに胸中で呟いた。日輪にとって尽の存在は大きいのは間違いない。それは決して悪くはなくて、尽はそこだけ満足して紅茶のカップを手に取った。
「よく分かんないけど、尽は捻くれてるけどお姉ちゃん大好きってことなんだよね、要するに」
突然言われた言葉に、飲みかけの紅茶が気管に入る。確かにそうだけど、そうじゃない。鋭いようで全然鈍いのも相変わらずで、尽は噎せながら恨めしげに日輪を睨んだ。どうしたら解ってくれるんだよと半ば叫びだしたい気持ちにすらなってくる。
「いいじゃん、私もそうなんだなって離れて解ったし」
「……何でもいいよホントにもう」
自棄になってした返事に今度はまたおかしな解釈をしたようだ。うんうん、と何故か嬉しそうに笑って頷いてくる。
「そっか、尽も大きくなったんだねぇ」
「今度はいきなり何なんだよ!」
姉の思考がさっぱり解らなくて尽は喚いた。ただ、その姿にはもう寂しさや不安がないことだけは解る。尽が帰ってきたことで解消されたのなら良い――帰ってきた甲斐もあるというものだ。そう思ってこっそり様子を窺った尽に気付かず日輪はマイペースに告げてくる。
「意地張ってないで、ちゃんと私も大人にならなきゃね。これからは連絡もいっぱいするよ」
返す言葉すら浮かばないぐらいに疲労を覚えて、尽はただただ項垂れるしかなかった。
度し難い姉の鈍さは離れてから更に磨きが掛かり、厄介な思い込みまでが追加されたかも知れない。
*
前と変わらない姉弟としての一日は呆気ないぐらいあっという間に過ぎてしまった。それはとても幸せで、やっぱり少し苦しい気持ちにになったけれど、尽は帰ってきたことに後悔はなかった。姉が笑っていないのが一番辛いから、あとは二の次で良いと思う。
寮の門限に合わせて戻ることになった尽は、立ったまま三和土でスニーカーを履きながら、ちらっと日輪へと視線を遣った。段で少し下がっていても、まだ尽のほうが若干背が高い。それを確認するたびにどうしてもニヤけてしまうのだが、気付いた彼女が軽く小突いてきた。そういうところだけは何故か鋭いから不思議である。
「あんたは大きくなって嬉しいんだろうけど、私は悔しいんだからね」
「いいじゃん、ねえちゃんのほうが大きかった時はオレが悔しかったんだから」
「いくないよ。ずるい」
「ずるいって言われても、オレはまだ伸びるよ?」
まだまだ成長期ですから、とふくれっ面になった姉の頬を軽く突いてから尽は得意げに笑ってみせた。更に眉を寄せた彼女はそのままで聞いてくる。
「夏休みって、いつから?」
「テスト終わったらテスト休みに入って、その後はすぐだったような……」
うろ覚えのまま答えた尽に日輪は腕の前で手を組んだ。
「ちゃんと確認して連絡すること」
「はいはい、ねえちゃんは一人でもちゃんとしたもの食うんだぞ」
お互い解ってると頷きあって、同時に吹き出す。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
気を付けて、と笑顔を作った姉はどうしても寂しそうで、尽も釣られて切なくなった。離れる前に、もう一度だけ触れておきたくなる。
「どうしたの、尽?」
「ちょっとだけ、こうさせて」
そっと抱き寄せて耳元で囁いたら、姉は頭をよしよしと撫でてきた。その子供扱いに尽はむっとする。解っていないにも程があり過ぎて、そのまま耳たぶを甘噛みした。
「ひえっ」
色気のない声を上げる日輪は余りにも日輪らしくて、解放する直前に今度は頬に口付ける。
「いつまでも子供だと思ってると足下掬われるんだからな」
挑発するように笑顔で告げると、一瞬で顔を火照らせた姉が爆発した。
「ば、馬鹿尽!」
「んじゃ、またな!」
逃げるみたいに玄関から飛び出した尽は、くすくすと笑い声を漏らしながらはばたき駅に向かって歩き出す。
海から吹く風が、夏に近いにおいに変わってきたことを肌で感じて、まだ日の高い空を振り仰いだ。
*
「しまった」
帰寮して翌日。月曜の朝になって、尽は投げ出したままになっていた宿題を思い出す。数学はよりによって最初の授業で、いつも通りにのんびり朝食を食べていたら間に合いそうもない。
「なあ、早乙女は終わってる?」
「終わってるけど、見せないからな」
すっかり土産を買い忘れて帰ってきた尽に、へそを曲げているルームメイトは素っ気なく答えてきた。わかったと頷いた尽は朝食を諦めて勉強机に向かう。
「もうちょっと食い下がれよ! これじゃ俺が冷たい奴みたいだろ」
「そんなこと言われても。どっちにしろオレの自業自得だししょうがないじゃん?」
あっさり応じると地団駄を踏んできた。面倒くさい奴だと溜息を吐く。
「ああもう、お前は色々諦めるのが早すぎる! もうちょっと粘らないと人生損するぞ!」
暑苦しく喚くルームメイトの言葉に尽は目を見開いた。諦める癖がいつの間にかついていたかも知れない。そっか、と独り言のように呟く。
「どうしてもって言うなら、見せなくもないのに。まあ、その代わりに東雲の女子大生なお姉さんを紹介して貰うけどな!」
「そんなことするわけないだろ馬鹿」
呆れ声で即座に断ったら、あからさまに肩を落としてみせてきた。冷たい超冷たいとぼやくのも忘れない。
「はいはい、冷たくてもいいから早く食堂行って来いよ」
追い払うみたいに言ってから、尽は背を向けて数学のノートを机に広げた。途中になってる問題に視線を落とす。
「あとで空腹で苦しめシスコンめ!」
ドアが閉まる直前に言い逃げみたいなことをして行った彼に苦笑して、尽はシャーペンを走らせた。思っていたより残りは少なくて何とかギリギリ朝食にも間に合いそうである。
「ねえちゃんを誰かに渡すなんてことするかよ。オレのなんだからな」
宣言するみたいに声に出すと不思議なぐらいにすとんと腹に落ちた。自分の中で何かが微かに変わったような気がして、尽は目を細める。深い部分の覚悟が決まったということなのかも知れない。
「これからは直接揺さぶってみるかな」
楽しげに笑ってから携帯端末にちらっと視線をやった。既にメールで夏休みには帰ってくるようにと約束させられているから好都合である。
覚悟しとけよ、ねえちゃん。
問題を最後まで解いた尽はノートを閉じて、勢いよく立ち上がった。
夏休みはすぐ近くまで近づいてきている――。
■