I.D
ⅰ
カレンダー的には夏と言っても問題はない時期なのに、今年はまだ時折肌寒い日があったりして油断ならない。日輪はひんやりとした空気にそんなことを思いながら、湯冷めしないようにとパジャマの上から大きめのストールを羽織った。そして、ソファに身体を埋めるようにしてから溜息に似た息を吐く。
「あれ? まだ寝ないんだ?」
キッチンの方から掛けられた声に一瞬硬直し、しかし何事も無かったかのように肩越しに振り返った――テスト休みに入ってから一時的に帰省している尽の意外そうな顔とぶつかる。飲むかと問うみたいにコーヒーサーバーを掲げられて、それに小さく頷いてみせた。
「ねえちゃんがこの時間に起きてるのって珍しいよな」
「最近はそんなこともないけど」
ありがとうと差し出されたカップを受け取りながらの答えに、弟が口元だけで笑った。
「へえ、大人になったじゃん?」
「なったもなにも元々大人だもん」
「ミルクも砂糖もたっぷり入ってないと嫌がるくせに?」
「うっさいな馬鹿尽」
無意識の即座の反応に、はっとする。対面に座った尽と目があった。
「ねえちゃんのそれ聞くと何か家に帰ってきたーって感じがする」
臆面もない嬉しげな表情に気恥ずかしくなる。その感情を隠すみたいにカップを煽ると彼女好みの甘さが口の中に広がった。悔しい。だけど嬉しい。
「ま、それはともかく。ほんとは何か悩みとかで眠れないとかじゃないのか? 仕事でミスったとか他のことで上手くいかないとか」
一変した面持ちに日輪はぎくりとした。が、何でもない風で頭を振る。
「別に、何もないよ」
「そ? なら、いいけどさ」
あっさり言った尽に安堵して、目をその後方にある窓へと向けた。
カーテンの隙間から見える夜空はただ暗く、何億光年前の光が見付からない。そういえば、天気予報で明日は一日中ずっと曇りだと言っていたような気がする。ぼんやりとそんなことを思っていると、唐突に声が上がった。びっくりして顔を戻す。
「ごめん言い忘れてたけど、明日夕飯いらない。急に用事頼まれちゃってさ」
「ええと、いらないのは別に構わないけど。遅くなるの?」
「どうかな。日付が変わるとかはないはずだけど」
「解った。じゃあ私も出掛けてこようかな。なっちんに誘われてたんだ」
来ていたメールを思い起こしながらの了承に、尽が眉を寄せたのが見えた。
「? 何、出掛けたらまずい?」
「違う。その逆」
意味が解らない。首と一緒に傾いた視界の先で弟は大仰に肩を竦めた。
「あのな、オレが帰ってきてるから出掛けないとかしなくていいんだって。ねえちゃんにはねえちゃんの生活があるわけだし、オレだって勝手に何かやってるだろ」
「う、ん」
反論出来なくて曖昧に頷く。確かにそうなんだけど、気持ち的に違うとは言えない。飲みきったコーヒーのカップを一度握りしめてから、どうしようもなくて立ち上がった。キッチンへと片付けに行く。
「とか言っても、」
戻ってきた所で尽がちらっと視線を向けてきた。黙って続きを促すと困ったみたいに笑う。
「ホントはねえちゃんがそうやってオレの為に色々してくれるのってすげー嬉しいんだけどさ」
ありがとな、と言われて、かっと頬が熱くなるのが解った。尽のこういう部分はずるいと思う――が、言葉にならなくて、ただ日輪は呻く。
「ほら、早く奈津実さんにメールしなって」
どこか面白がるような素振りでひらひらと手を振った弟を睨み付けてから、廊下へと続くドアに手を掛けた。はたと思い出して、悔しかったが口早にオヤスミと告げる。
「はいはい、おやすみ」
ニヤニヤした声音を背で受けて頬が膨らむのを感じた。悪態を堪えて、でもその代わりに乱暴に扉を閉める。と。
「さっきの。言いたくなったら言えよ。こっちに居る間ならいつでも聞いてやるから」
静かな、しかし、はっきりした声が閉まる直前に聞こえてきた。返事を待っていないのは明かで、日輪は他に術もなくそのままのろのろと自分の部屋へと引き返す。
優しさを嬉しいと思うよりも先に、また居なくなることを意識してしまって胸が酷く傷んだ。見ない振りをしていた寂しさが覆い被さってくるようだ。息が苦しい。
「言えるわけ、ないじゃない」
やるせないような、泣き出したいような気持ちのままに呟いたその声は掠れ、すぐにその場から消えていった。
ⅱ
「今日も一日お疲れー」
「ごめん私は休みだったけど、お疲れ様」
軽く合わせたグラスに口を付ける。カルピスの白とカンパリの赤が綺麗に混ざったプレリュード・フィズは柔らかな苦みが心地よい。自然と漏れる吐息の後に視線を上げると、ビールを飲み干した奈津実と目が合った。ふ、と笑う。
「泡ついてる」
「ええっうそ! これで取れた?」
慌てて紙ふきんで拭った彼女に頷いて、おかわりすればとメニューを差し出した。奈津実はそれに視線をやってからカウンターに声を掛けて違うビールを注文する。
「今日はビールな気分なんだ?」
「うん、ちょっと忙しかったし暑かったから。こういう時はビールでしょ」
成る程と応えると彼女が身を乗り出してきた。
「そんなことより! この間、告白されたとか言ってたのはどうなった?」
期待するような眼差しに苦笑して、日輪は緩く首を振る。
「振られたよ」
「は? だって、告白されたんでしょ」
「うん。でも、無かったことにしようってことになったから」
「何ソレ」
説明に奈津実は理解不能の表情を浮かべた。日輪は肩を竦めてみせる。
「答える前に私に気持ちがなくて無理だって思ったみたい。それはそれで何か申し訳ないよね」
言って、手元のグラスに視線を落とした。始まる前に終わってしまったということに落ち込んでいるわけではないけれど、重たい物が残ったのは確かだ。
「上手くいかないなぁ」
零れた呟きに頬を軽く摘まれる。何だろうと顔ごと上げると奈津実が訝しげな眼差しを向けているのに気付いた。
「なっちん?」
「んー、いや、前から思ってたんだけど、アンタ本当は好きな人いるんじゃないの?」
「……どうなんだろうね」
曖昧に返してグラスを揺らす――苦い気持ちごとカクテルを一口飲み込んだ。
「言いたくないなら無理には聞かないけどさ」
「ごめん。言いたくないとかそういうんじゃないんだけど。まだ、わかんないんだ自分でも」
軽く笑ってみせてから、それよりと言葉を繋げた。
「なっちんは最近どうなの? ケンカとかしてない?」
「ケンカもなにも。アタシの恋人はカメラだけですから」
「要するに今まさにケンカしてるってことですね」
するっと入ってきた声に目を見開く。お待たせしましたとビールを差し出したのは尽で、何故かここの店員の格好をしていた。
「あれー、尽じゃん久し振り! ここでバイトしてたんだ?」
「臨時なので今日一日限定ですが。」
頼まれた用事があると言っていたのはここのことだったらしい。にっこりと笑った弟に昨日の言葉を思い出す。
「そっか。って。ちょっと! アンタまた背、伸びたんじゃない?」
羨ましげな奈津実の声に尽は首を傾げた。自覚はあまりないようだ。
「そうだね。前に帰ってきた時より伸びてるよ。これからもまだ伸びるんじゃないかな。うち、お父さん大きいし」
代わりに応えて頬杖をつく。そうだと良いけどとそれに少し照れたように笑った。
「この間、タマに偶然会ったんだけど、あいつ、更に大きくなってて。それに比べるとオレはまだまだだなーって思ってたからさ。伸びるのは大歓迎」
「タマって、タマぷー弟? まあ、あの子も育ったよね。昔はあんなに小さかったのに」
思い出したようにしみじみと呟いた奈津実に尽も同意するように頷く。
「そうそう。オレよりも小さかったのに。今ではすっかり可愛くなくなってて面白くない」
「それはあんたも同じだから」
呆れて言うと意外そうに目を瞬かせた。日輪はそれに苦笑するしかない。
「タマぷー弟と言えば。アタシ、最近よくデートしてるの見かけるんだ」
「ああ、なんか『バンビ』でしたっけ?」
「そうそう。『バンビ』」
「ばんび?」
何それと二人の会話に眉を寄せた。はば学の子の愛称だと同時に教えられたが、尽も奈津実も何故それを知っているのかが不思議である。
「オレは直接見てないけど、情報では かなり可愛い子だとか。で、タマがめろめろなんだとか。本人のメールでは友人が、とか後輩が、とかしか書いてこないんだけど、文章から色々伝わってきてそれが可笑しいというか愉快というか」
思い出したように笑った尽だったが、はっとしたように奥に視線を向けて顔を強ばらせた。ヤバイと口が動く。覗き込むとマスターが居て、にこやかに会釈を返してくる。
「えーと、そろそろオレは働きます。ごゆっくりどうぞ」
機械的な動きで頭を下げた弟は返事を待つ間もなく足早に厨房のほうへと消えた。奈津実と目を見合わせて、やれやれとどちらからともなく息を吐く。
「あれは確実に叱られるんじゃない?」
「かもね。でも尽は要領良いから大丈夫だよ」
残っていた酒を飲み干してから、メニューへと手を伸ばした。奈津実に頷いてみせると彼女もニッと悪戯っぽく笑って二杯目をぐいっと煽る。
「さて。今日はなっちんにとことん付き合います」
「とことん、ね。いいけど潰れても知らないよ?」
ニヤリとした彼女に少しだけ口を尖らせて、日輪は尽以外の店員に声を掛けた。
*
心配する奈津実と別れて、日輪は家への道を一人で歩く。若干、足下が覚束ないけれど、これぐらいならいつものことだ。
「どうやったら、なっちんみたくアルコールに強くなれるんだろ」
羨ましい気持ちが無意識に呟きになる。それに気付いて頭を振ると、視界が回った。少し、いつもより酔いが酷いかも知れない。
「そんなに飲んでないのに情けないな」
零れた嘆息が温い空気に溶けた。何となく見上げた空はやっぱり昨日と同じで、そこに星は見えない。
「ねえちゃん!」
遠くから尽の声で呼ばれたような気がして勝手に足が止まった。相当酔ってるのだろうかと首を捻るとはっきりとした声が再度呼んでくる。
これは気のせいじゃない。
身体ごと振り返った先に日輪は自分の弟の姿を認めた。
「本物尽」
「偽物オレとか居るのかよ。全く、この酔っぱらい」
弾んだ息のまま吐き捨てた尽に目を瞬かせる。そういえば何でここに居るのだろう。
「何でもなにも、奈津実さんから連絡が来たんだよ。ねえちゃんかなり酔ってて危ないからって。で、オレは丁度バイト上がった所だったから、急いで追いかけてきたってわけ」
「そっか。って、あれ。今、口に出してた?」
「かなりじゃなくて相当酔ってるな」
呆れた口調の弟に頬を膨らませる。そんなに言われるほどではないはずだ。
「平気だって。真っ直ぐ歩けてるし」
「それ本気で言ってるからヤバいんだよな。へにゃへにゃしてたぞ、ものすごく」
言って、差し出してきた腕をただじっくりと見つめる。
「?」
「何で不思議そうな顔してんだよ。いいから掴まれって」
焦れたように動いた腕と顰め面を交互に見遣ってから日輪はおずおずと手を伸ばした。そっと触れるように掴まる。
「それじゃ意味ないだろ。もっとしっかり」
言われるままに力を込めると尽はやっと満足げに頷いた。今度は日輪が顔を顰める。
「威張り尽」
「仕方ないだろ、酔っぱらい」
疲れたように嘆息した弟だったが、気遣うようにゆっくりとした速度で促すように歩き出した。支えられた身体とそのペースでだいぶさっきより楽なのを感じる。
「強くないのにがんがん飲むからこうなるんだよ。――そりゃ落ち込むようなことがあって飲みたかったっていうのは解るけどさ」
「どの辺から聞いてたの?」
責めるつもりではなく確認で尋ねると尽は決まり悪そうに目を伏せた。
「あ、と。告白されたって辺りから。ごめん」
「いいよ別に」
気にしてないからと言葉を締めて、道路に薄く出来ている二人分の影を何となく見つめる。すっと吹いてきた風に何処かで咲いている梔の香りが微かに甘く届いた――伝わる体温とそれが心地良い。酒だけでなく、この状態にも酔いそうだ。頭が、ぼうっとする。
「……好きだって言ってくれたから、私も好きになりたかった。なれたらいいって思ったんだよ」
「うん」
昨夜言っていた通りに話を聞いてくれるらしい。眼差しを向けると頷きが返された。日輪は安心して、でも、と続ける。
「駄目なんだよ、いつも。嬉しいし、有り難いけど、それ以上先にいかないの。どっかおかしいんだ私」
「自分でおかしいとか言うなって」
「だって。尽は知らないから」
アルコールに身を委ねて全て言ってしまえたら楽なのに、これ以上を言うことは出来くなった。吐き出した分の言葉に泣きたい気持ちを押し殺して笑う。結局は中途半端だ。
「ごめん。やっぱり相当酔ってるね」
腕に顔を押し付けるみたいにして溢れそうになった涙を隠す。声が少しだけ震えてしまったのには気付かれただろうか。
「やっと認めたか。まあ、そんな酔っぱらいだからオレも言うけど」
前置くみたいな宣言に目だけ上げる――それを待っていたとばかりに尽は口を切った。
「ねえちゃん、オレのこと好きだろ」
心臓が止まるかと思うほどの衝撃に息が詰まる。違うと否定しなければならないのに、声がまるで出てこない。
「何となく意識されてるなーとは思ってたけど、話聞いてたらそうとしか考えられないじゃん。とは言っても、ねえちゃん自身はそこまではっきりしてないみたいだけどさ。でも、意識してるのは自分でも解ってただろ?」
確認するような言葉にやっとの思いで頭を振った。
「馬鹿なこと言わないで。そんなわけ、ないじゃない」
いつもとは全然違う声音にどうしていいのか解らなくなる。ぐるりと歪んで回る視界に混乱と焦りが一層増した。立っていられない。
「あーもう、すごい勢いで首振るから」
大丈夫かとさすられる背中にぼろぼろと目から熱いものがこぼれ落ちた。深い呼吸を繰り返して、何とか落ち着くことに成功する。
「歩けないならおぶるぞ」
「平気」
ぐしゃぐしゃであろう顔を上げると心配げな目があった。それに日輪はもう一度平気と呟く。
「私はお姉ちゃんなんだから」
「そんなの、嫌になるぐらいよく知ってる」
痛みを我慢するみたいに眉を寄せた尽に、日輪は自然と手を伸ばしていた。気付いて、でもそのまま昔よくしていたように頭をそっと撫でる。
「オレ、もう子供じゃないんだけど」
「知ってるよ、そんなの」
嫌になるぐらいにね、と同じように応えて、上手くはいかなかったが少しだけ笑ってみせた。
「ねえちゃん……」
まだ何か言い足りなさそうな弟の気配に目を伏せる――長いような短い時間を暫くそうしてやり過ごすと諦めたみたいな嘆息だけが返ってきた。それにほっとする。
「帰ろ、尽」
今度は掴まるのではなく、すっかり大きくなった手を取って繋いで、街灯だけが照らす夜道を再び歩き出す。
握り返されて伝わってきた熱さに日輪は家に着くまで顔を上げられなくなっていた。
ⅲ
一夜が明けて残ったのは多少の頭痛と苦い気持ちだ。ふらふらしていても記憶を無くす程ではなかった酔いに、日輪は重く息を吐き出した。どうせなら、と思いかけて頭を振る。考えても詮無いことだ。今更、何かが変わるわけではない。
気まずさを思い切り押しやってからパジャマのままで廊下に出ると、階段を上がってきたらしい尽と丁度鉢合わせた。瞬きの間だけ息を詰めて、即座に姉の顔を作る。
「おはよう、尽」
「おはよ。今、起こそうとしてたんだ」
いつも通りに出来たことを内心安堵してから弟の様子を探った。尽も普通である。
「ありがと。でも、今は休みでも一人で起きられるようになったんだよ」
「みたいだな。あんなに大変だったのに、人間やれば出来るもんなんだなぁって思ったよ」
「もう、うるさい」
軽口に応えて、はたと気付いた。この時間にしては弟の身支度が整い過ぎている。
「尽、その格好……」
「うん、寮に戻るからそのことを言いにきた」
言葉の先を察したように頷いた尽は種明かしをするみたいにそう告げてきた。
「そう、なんだ」
日輪はそれだけしか応えられずにパジャマの裾を握りしめる。しっかりしろと一度目をぎゅっと閉じてから、弟を見上げた。
「今度はいつ帰ってくる?」
「それはねえちゃん次第かな。早くオレに会いたいか、暫く会いたくないか――どっち?」
日輪の問いに反応を見るような眼差しが返される。試されていることを知って、笑顔が強ばるのを感じた。
「何それ……、ずるくない?」
「オレもそう思う」
あまりにも軽い同意に感情が一気に膨れあがる。抑止が間に合わない。
「振り回すだけ振り回して戻るくせに、何でそういう聞きかたするの」
必死に貼り付けた姉の顔が一緒に剥がれ落ちていくかのように、涙が溢れて次々と零れた。それでも構わず睨み付ける。
「確かに何かあんたを意識してたと思う。弟として、そんな姉なんて気持ち悪くて嫌かも知れないよ。でも、だからって、あんまりじゃない。私だって、自分でよく解んなくて嫌なのに! そもそも、どの好きかなんて本当に解るの? 気持ちなんて曖昧なのに? 仮にそうだとしても、尽じゃなくてこれから出会う誰かをちゃんと好きになれるかも知れないんだからね!」
捲し立てるみたいに言って、日輪は肩で息をした。滅茶苦茶なのは解っていたが、もうどうにもならない。
「それは困るな」
静かな声を聞いたと同時に身体がすっぽりと包まれた。抱き締められていると理解するのに暫く時間が掛かる。
「ねえちゃんは今のままでいてよ」
耳の側で囁かれたそれに肌があわ立った。顔も熱い。
「! ちょっと、離して、尽」
「約束してくれるなら離してもいいけど」
藻掻いたら余計に力が加わった。逃げることは不可能だと悟って動きを止める。
「……何」
「うん、他の誰かを好きになんてならないって約束してくれる?」
「?」
意味が理解できなくて思い切り顔を顰めた。それに尽はそのままの格好で器用に肩を竦める。
「約束するのもまだ難しいか。じゃあ、次にオレが帰ってくるまでその返事は保留でいいよ」
そう言うが早いか身体を解放された。崩れ落ちるようにその場にへたり込んだが、日輪は安堵の息を漏らす。そして再度、弟を見上げた。
「次って、いつ?」
困惑と混乱とその他諸々が混ざり合ったまま恐る恐る尋ねると、しれっと弟が答えてくる。
「夏休み始まったら。つまり来週かな」
「ちょ、何それ! 尽ずるいよ!」
「だから、自分でもそう思うって言ってるだろ?」
精一杯の抗議に返って来たのは、少しも悪びれない鮮やかな笑顔だけだった。
*
『メール見たよ。具合悪いって二日酔い?』
通話ボタンを押した途端に響いてきた奈津実の声に日輪は口元を綻ばせる。バイト出勤前に送ってくれたらしいメールに返信したのはついさっきだったのに、それを見て直ぐさま掛けてくれたのは明かだ。くすぐったいけれど、素直に嬉しいと思う。
「二日酔いじゃないよ。それは大丈夫。具合悪いっていうか熱がちょっとね」
『熱? 風邪でもひいた?』
「や、何て言うか。知恵熱、みたいな……?」
明確でない返事に回線の先の彼女が何で疑問系なのと呆れた声を上げた。日輪はそれに苦笑して、それよりと続ける。
「メールにも書いたけど。ごめんね、花火誘ってくれたのに一緒にいけなくて」
『いいって。尽がまた帰ってくるなら仕方ないもん』
あっさりと言った奈津実に曖昧にうん、と返してから付け加えた。
「それもあるんだけどさ、なっちんは私を誘ってる場合じゃないと思って。早く仲直りして、一緒に花火行くべきじゃないかなぁ」
『うー……』
呻く彼女に笑ってからベッド脇の窓を見上げる。空は青く、何処までも広い。答えはまだ出せそうにないけれど、それでも変に吹っ切れたのはこの天候のせいかも知れない。
「考えてるだけなんて勿体ないって思うよ。だって、もう夏なんだからさ」
自分にも言い聞かせるみたいに言ってから、日輪は枕元のカレンダーを爪の先で弾いた。終業式といつの間にか書き足されていた文字が、かつんと音を立てる。
暑さを引き連れた夏が、もう目前に迫ってきていた。
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