夕焼けワルツ
1
窓枠の形に切り取られた海が夕の色から次第に暗いものへと変わり始める。それを見送るようにしながら緩やかなカーブを描き、電車は新はばたき駅のホームへと滑り込んだ。駅員によるアナウンスの声に合わせてドアが開くと同時に、帰宅を急ぐ人が群れのようになり隙間から流れ出る。それまでぼんやりと吊革に掴まっていた日輪も倣うみたいにそこから足を踏み出した。発車を知らせるメロディが背後で響く――。
「ねえちゃん」
機械的に改札を通り抜けると雑踏の中から聞き慣れた声が耳に届いた。落としていた視線を上げた先で、場所を知らせるようにひらひらと手が閃く。見付けた顔に思わず目を瞬かせた。
「尽」
疑問符込みのその声音に弟が大仰に肩をすくめる。やれやれと言いたげだ。日輪がそれに眉を寄せると苦笑と共に歩み寄ってくる。
「あのな、そんなにオレがここに居たらおかしいか? バイト終わって帰るついでに寄っただけだぞ」
「……バイトって五時までじゃなかったっけ」
顰めた顔のままで日輪は駅の時計へと目をやった。針は六時半を過ぎた場所を指し示している。
「人足りなくて残業」
あっさりそれだけを告げた尽は早く帰るぞと言わんばかりに日輪の腕を引いた。地に縫いつけられたようになっていた足がまた動き出す。
「同窓会、何かあったのか?」
「別に。何でそんなこと聞くの?」
駅ビルに掲げられたセールの文字に目をやってから応えると弟が小さく笑った。
「……ちょっと、何で笑うわけ」
「や、だって、ねえちゃんてホント自覚ないなーって思ってさ。何かあったってのが面白いぐらい顔に出まくってんのに、それで別にとか言ってんだもんな」
「う、うっさい!」
放された腕で背中を叩くと尽が振り向いて唇の端をつり上げる。軽くそれを睨み付け、仕方なく嘆息に変えた。すぐ顔に出るのはよく指摘されることだからである。
「あの、さ、尽は、英(はな)ちゃんのこと覚えてる?」
躊躇いがちに問うと当然と言うみたいに弟がしっかりと首を縦に振った。
「ねえちゃんとは小学校から一緒だったよな。バレンタインだからって毎年柿の種チョコくれたりしたからよく覚えてる。確かひん……じゃなくて、ええと、スレンダーで眼鏡掛けてた」
「そう。――なんか言いかけたのが気になるけど」
「細かいことは気にすんなって。で?」
のぞき込んできた瞳にちらりとだけ合わせて、日輪は気分と共に重くなり始めた口を開く。
「いつの間にか結婚してて、それで赤ちゃんがいたの」
「へえ」
「……それだけ? ショックじゃないの?」
特に驚いた様子を見せない尽にひどく落胆を覚えて項垂れた。何だか切ない。
「いや、だって、中学卒業してもう七年だよな?」
確認するような尽の声に無言で頷く。
「だったら有りだろ、普通に。いつまでも昔と同じじゃないんだからさ」
言われた言葉にぎくりとして顔を上げると、隣で少し驚いた気配がした。目が合う。
「何だよ。もしかしてずっと変わらないとでも思ってたのか?」
「そんなこと……」
ないと言い掛けて、唇を噛み締めた。全部を否定できない。変わらないとは少し違ったが、まだ変わっていないとは思っていたからだ。――不意に身の内に潜むものが反応して、ぎゅっと胸を痛ませる。変わるのは、怖い。
「馬鹿だな、ねえちゃんは」
軽い口調で言った尽がぽんと頭に手を乗せてきた。だが、眼差しはその態度を裏切ったみたいに柔らかい。まるで内心を見透かされている気がして、日輪は誤魔化すように減らず口をきいた。
「馬鹿って言った人が馬鹿なんだからね、馬鹿尽」
「まあいいけどさ、何でも」
嘆息の後に手が差し伸べられる。驚いてまじまじと見つめると、焦れたように尽が日輪の手を取った。久しぶりにちゃんと繋ぐその手は、記憶していたものとは明らかに違う。大きくて堅い。
「誰だって子供のままじゃないだろ」
「……そんなの解ってるもん。尽のくせに生意気」
鼻の奥がつんとしたのを紛らわせるみたいに、日輪は街灯で浮かび上がった弟の影をたん、とつま先で思い切り踏み付けた。
2
「おひめさまのおはなしがすきじゃないの? なんで?」
「なんでって、だって、ただ待ってるばっかりのが多くて……とにかく何か嫌なの!」
幼い声が不思議そうに問い掛けてきたのに上手く答えられなかったのは、日輪自身も幼かったからだ。それでも伝わるものがあったのだろう、弟はそれきりお姫様が登場する本を読んでとせがまなくなった。
仕事の忙しい両親を待つのも、約束の再会を待つのも、どうしようもない寂しさが同時に存在する。尽が生まれるまでは一人で時間を過ごすことが珍しくなかったから、寂しさというものは身に染みるほど知っていた。だから、例え物語の中のことでも待つという行為が日輪は嫌だったのである。
日輪は部屋の奥にしまい込んであるものと同じ懐かしい本を指先で軽く撫でた。児童書コーナーで見付けたそれは少し色褪せて、くたびれた様子を見せている。目を逸らしてきた分の年月をぐっと突きつけられたようだ。本を棚に戻すとため息が零れる。
「珍しいわね、東雲さんがこの階にいるなんて。専門書の階じゃなくていいの?」
巡らせた視線の先で有沢が目を細めた。
「……志穂さん」
「何か調べ物?」
「そういう訳じゃないん、だけど。なんか今日は地下に籠もりたい気分じゃないというか、ね」
どうしても歯切れの悪くなった言葉に彼女はとん、と自分の額付近を指して見せる。
「?」
「眉間に皺。」
日輪は短く呻いて、ぐっと手の甲で眉間の皮膚を伸ばした。
「その様子だと何かまたぐるぐる考えているんでしょう?」
言い当てられて息を飲むと有沢はやっぱりねと苦笑する。
「ねえ、このあと少し時間ある? お茶でもしない?」
「うん、私はもう全然オッケー。けど、志穂さんの用事は済んでるの?」
図書館に来た時の彼女は大抵何冊かの本を抱えているのに今はない。指摘したそのことに有沢はあっさりと頷いた。
「今日は返却に来ただけだから。この階に寄ったのは癖みたいなものね」
童話好きの彼女はそう言って肩を竦める。
「あなたが良いなら、もう行きましょうか」
「やっぱり脳に糖分は必要?」
いつも有沢が言っていることを先回りして口にすると彼女はふふ、と小さく笑った。
「そうよ。特に東雲さんは無駄に考え過ぎるから。ちなみにカフェテラス今週のお勧めケーキはアールグレイシフォンケーキみたいよ」
「あの、微妙に体重増えちゃったから、今、おやつ控え中なんだ……」
「あら、それは残念ね。でも私は食べさせて貰うわよ」
「ず、ずるいよ、志穂さん」
日輪の恨めしげな視線を澄まし顔で受け止めていた有沢だったが、すぐに堪えきれなかったみたいに頬を緩める。
3
「私の手、何かおかしい?」
怪訝な声で我に返る。無意識に固定していた視線を外して慌てて首を振ってみせると、有沢は目だけ日輪に向けたままハーブティのカップに口を付けた。これは見逃してくれなさそうな雰囲気である。
「いや、あの、ぐるぐるしてるって言っても大したことじゃないんだよ、ほんとに」
「それなら言ってくれてもいいんじゃない?」
気になるでしょう、と続けられて曖昧に頷いた。そのままシフォンケーキを一口頬張る。紅茶の香りとふわふわしつつしっとりした食感がたまらない。
「東雲さん」
呼ばれて目を伏せた。フォークを持つ手が微かに震える。
「……昨日、中学の友達がお母さんになってたことを初めて知ったんだけどね」
そこで切って、日輪は皿にフォークを置いた。そうして押さえ込むように、両手を祈る形のように組む。
「それでショックっていうか色々複雑な気持ちになったわけ。最初はただびっくりしただけだったんだけど、何だろ、不安とか焦りとか何かそういうのでいっぱいになっちゃって」
「あなた、意外と保守的な所があるものね」
有沢の冷静な言葉に苦笑して、指先に力を込めた。
「まあ、そういうこと。――あと尽に言われたこともちょっとあったからさ。って、ほら、全然大したことなかったでしょ」
止まった震えにこっそり息を吐くと、目の前に座る彼女は間を作るみたいに持っていたカップをソーサーの上にそっと置く。
「解った。それは要するに尽君が原因ってこと」
「違っ」
焦って腰を浮かせた日輪に有沢は図星ね、とやや呆れた顔を見せた。
「志穂さん卑怯だよ、今の」
力無くまた腰を落として言うと彼女はそうかしらと目を細める。呻くしかない。
「そもそも、あなたが不安定になる時は尽君絡みが多いじゃない」
「そんなことないもん」
否定しつつも、恐らくそうなのだろうと日輪は内心思う。日輪にとって、尽の存在はそれだけ大きいのだ。ふ、と昨日の言葉が蘇って瞳が滲んでくるのが解った。気付かれる前にココアのカップを手に取ってぐっと煽る。
「!」
「もう。猫舌なのにそんな飲み方したら駄目じゃない」
水を差しだしてくれる有沢に何度も頷いて見せてから、じりじりするような舌の痛みを隠れ蓑にして日輪は堪えていた涙を解放した。
4
不審がる有沢に話さないまま別れて、日輪は一人商店街のほうへと向う。自分でも何を言い出すか解らなくて、真っ直ぐ帰るわけにはいかなかった。家に居るであろう尽にこの状態で会いたくない。ずっと隠してきたものを感づかれてしまいそうだ。
「しっかりしなきゃ」
呪文のように昔からの口癖を唱えて、昨日繋いだ手に視線を落とす――新たに記憶したぬくもりと感触がどうしても寂しかった。変わりたくないと願っても叶わない。大人になる時がいずれ来てしまう。
「あとどの位、一緒にいられるのかな」
ぽつ、と声に出して呟いたそれは酷く掠れた。滴がまた頬を滑り落ちていくのを感じて、日輪は慌てて途中で拭う。そうして、これ以上出て来ないように空を仰いだ。うっすらとまだ明るさを残した空は、いつもより広く深く見える。余計に心許ない気持ちになるのが止まらなかった。不安定な精神ごと足下がぐらつく――。
「うわっ」
間近で聞こえた声としっかり支えてきた腕は振り返らなくてもすぐに尽だと解った。いつも変なタイミングで現れるこの弟は妙にタチが悪い。
「なんで、居るの」
涙の混じった声に気付かれたくなくて、ぶっきらぼうにそれだけ言う。
「そりゃセンサーが反応したからな」
「何それ」
肩越しに少しだけ振り返ると、指が目の下辺りをそっと撫でていった。
「あのな。隠してるのみたいだけど、バレバレだから」
嘆息するみたいに息を吐き出した尽が、くるりと日輪の身体を回転させた。嫌でも正面から向き合った状態になる。
「ま、センサー云々は半分冗談だけどさ。さっき連絡あったんだ。ねえちゃんの様子がおかしかったから探してくれってね」
「……志穂さん?」
「そ。ホント大事にされてるよな」
笑って、頭を軽く小突いてきた。それに日輪は頷く。
「昨日のことなんだろ?」
質問でなく確認するみたいに言った尽は自然と日輪の手を取って歩き出した。引いて促されるままに日輪もその後を付いていく――Tシャツが汗で張り付いているのが目に入った。大事にしてくれてるのは尽も同じだ。馬鹿尽と口の中だけで呟く。
「何か言ったか?」
「別に」
振り向いてきた弟に頭を振って、繋いでる手に力を込めた。疑わしげな眼差しが向けられたが、口を割らないことを悟って諦めたようにまた前を向く。
「なあ、ねえちゃんは何をそんなに怖がってんだ?」
「怖がってないもん」
即答した言葉は、しかし力がなかった。これでは否定しても意味がない。解っていても、どうにも出来なくて日輪は唇を噛み締める。
「無駄な嘘吐いたって仕方ないだろ。一人で泣いたりしてる癖に。……言ってくれなきゃわかんないんだからな」
「尽に言ったって、どうしようもないじゃん」
口にしてから、しまったと思った。そういうことを言いたいんじゃない。
「ごめん、違う。そうじゃなくて……っ」
「自分の問題だからって言いたいわけ?」
言い換えようとしたものを読んだみたいに尽が言ってきた。それに頷いて、そのまま俯く。
「でも、オレが原因なんだろ?」
弾かれたように顔を上げると苦笑が見えた。
「悪い。無理矢理それだけ志穂さんに聞いた」
「馬鹿」
他に言葉が浮かばなくなって、それきり黙り込む。
「原因になったからには責任があるし、何とかする義務がオレにはあるだろ」
日輪の様子に肩を竦めてから尽が言葉を重ねてきた。
「そんなのない」
「絶対あるね。だから言えって」
「言わないよ! だって、離れていっちゃうのが寂しくて嫌だなんて言えるわけないでしょ!?」
喚いてから、はっとして口を押さえる。尽が驚いた顔で日輪を凝視していた。血の気が引いていくのが解る。
「何だよ、それ」
感情の読めない呟きに、繋いでいた手を振りほどいた。何かを言われるのが怖い。
「……今のなし」
それだけを何とか絞り出すように口にしてから、日輪はその場から逃げ出した。
5
何処をどう走ったのか解らないまま辿り着いたのは、結局は自宅だった。少し躊躇って、けれど行く当ては特になくて、整わない呼吸のまま鞄を漁って鍵を取り出す。それを鍵穴に差し込もうと手を伸ばした所で、ドアが微かな音を立てて勝手に開いた。
「遅かったな」
内側から掛かった声に息を飲む。無意識に後退ると制止するように名を呼び掛けられた――そのまま、腕を引かれて玄関へ倒れ込む。
「逃げるなよ」
身体を受け止めるように抱きしめた尽が間近で囁いた。今まで見たことのないような顔した弟にざわさわとした酷く落ち着かない気持ちになる。
「逃げてなんか」
ぱ、と視線を逸らすと、それを追うみたいに尽が覗き込んできた。
「逃げてるだろ。現に今だって目ぇ逸らすし」
退路を断たれて何も言えなくなる。そんな日輪の頬を尽は軽く摘んだ。そして吹き出す。
「面白い顔」
「勝手にやっといて笑うな馬鹿尽!」
きつと睨み付けるとニヤリとした笑みを見た。乗せられたと気付いて短く呻く。
「そういう風に思ってること、ちゃん言えばいいんだよ。無しとか言ってないでさ」
無性に泣きたくなって、それを堪えて顔を顰めた。声を出すことも出来そうになくて、ただ何度も首を振る。相変わらず強情だなと呆れたように尽が言うのも睨み付けるだけで返した。
「もう、何でもいいけどさ。これだけは先に言っとくぞ、ねえちゃん」
目の前に指を突きつけられる。それと顔とに交互に視線をやった。尽が不敵に、だが鮮やかに笑う。
「さっき離れていっちゃうとかなんか言ってたけど、オレはねえちゃんから離れたりする予定はない。それは昔もこれからも変わらないから」
びっくりして涙が奥へと引いたのが解った。唖然として見つめると肩が竦めらめる。
「ねえちゃんにはねえちゃんの理由があるように、オレにもそーいうのがあるわけ」
まあ今はまだ言うつもりもないけど、と何処か自嘲めいた響きで付け足した。
「尽の理由?」
「そう。全然解んないだろ? オレはねえちゃんのは何となく解っちゃったけどね」
意味ありげに口元を吊り上げた弟に日輪は顔が熱くなるのを感じる。理不尽さに頬を膨らませた。
「ずるいよ尽」
「しょうがないだろ。つか、ねえちゃんが鈍感なのがそもそも悪いと思うぞ」
「関係ないでしょ、それは」
むっつりしたまま言い返した日輪に、尽は大げさな素振りで疲れた息を吐く。
6
「……あった!」
引き出しの奥深くにあった一冊の本をそっと取り出して、日輪は両手でそれを蛍光灯にかざした。綺麗なままだからか、この本だけはあの頃から時間を止めているみたいに見える。
「ねえちゃん、電話――」
ノックと同時にドアから顔を覗かせた尽が持っていたものに目を見開いた。
「なんか随分懐かしいもん出してるじゃん」
「まあね。ていうか、電話なんでしょ」
苦笑すると尽が珍しく焦った様子で応えてくる。
「そうだった。ごめん、英ちゃんから」
差し出された子機を頷きながら受け取って、日輪はそれを顔の横に押し当てた。呼吸一つの後に送話口に呼び掛ける。
「もしもし、英ちゃん?」
『ごめん、忙しかった?』
英の少し早口な声に大丈夫と伝えると受話口の向こう側でふふ、と小さく笑った気配がした。
「何?」
『さっき尽くんが出たじゃない。最初、誰かわかんなくてびっくりしちゃった。声、全然違うね』
「そうかな。あんまり変わってなくない?」
『違うって。日輪はずっと一緒にいるから気付いてないだけだよ』
言われた言葉に何故かドキリとする。ベッドの上にいつの間にかくつろいで本を読んでいた尽を振り返ると気付いて、何と唇が動いて問い掛けてきた。頭を振る。
「そういうものかな。ねえ、今、赤ちゃんは?」
『隣の部屋で寝てるとこ。あの、さ、怒ってない?』
「怒るって何を?」
見えるわけでもないのについ首を傾げてしまった。はたと気付いて慌てて戻す。
『黙って結婚して子供産んでたこと、かな』
「何で。怒ってないよ」
『でも、昨日、なんか余所余所しかったじゃない』
「それは、すごいびっくりしたから。――って、ごめん、気になった?」
電話を掛けてきた理由を知って、空いていた手で顔を覆った。
『ちょっとだけ。でも違ったなら良かったよ。私も連絡しなくてごめん。何度もしようかと思ったけど、何となくし辛くて』
「昔、散々結婚なんてしないって言ってたから?」
『そう。ばつが悪いでしょ』
声に苦笑が見える。日輪は小さく笑ってから思い切って疑問を口にした。
「あのさ、どうしてそういう気持ちに変わったか聞いていい?」
『……えー? 恥ずかしいこと言うけどいい?』
「うん」
『私が私のままで居られる人に出会ったから、かな。あー、もうホント恥ずかしいよ!』
じたばた照れる様子が伝わってくる。それに日輪のほうが今度は苦笑した。
「英ちゃん、あんまり騒ぐと赤ちゃん起きちゃうんじゃないの?」
『あ。』
「しっかりして下さいよ、『お母さん』」
『すみません。気をつけます』
吹き出して一緒に笑って――先に納めた英が少し口調を改める。それに黙って耳を傾けた。
『前は結婚したら全部変わっちゃうと思ってたんだけどね。この人となら変わらないでもいいんだって、大丈夫だって思ったの』
「のろけ?」
『まあね』
あはは、と笑った友人に日輪は頷く。そして聞いた。
「ねえ、英ちゃん。今、倖せ?」
『当たり前でしょ』
全開の笑顔が見えた気がした。
* * *
「良かったな、ねえちゃん」
一頻り話して通話を終える。そうして、その声に電源を切った動作のままで振り向くと、尽が嬉しそうに笑っているのが見えた。それが何だか照れくさくて、誤魔化すように睨め付ける。
「良かったな、じゃないでしょ。人の電話盗み聞きしないでよ」
「いや、また凹むかなーって心配だったから」
ニヤニヤしたままでそんなこと言われても説得力がなかったが、日輪は諦めて隣に腰を下ろした。息を吐く。
「結婚、か」
溜息と一緒になったその呟きに尽が目を向けてきたのが気配で解った。日輪はそれに身体ごと弟の方に向ける。
「ねえちゃんも早く相手が見つかるといいな、とかどうせ言いたいんでしょ」
半眼で表情を見た。が、そこには想像していた揶揄するようものはない。大人びたそれに胸が騒ぐのを感じた。
「尽……?」
呼び掛けに応えず、手が伸ばされる。そっと触れられた頬が熱い。何かを言わなければいけない気がするのに言葉がちっとも出てこなくて、日輪は身を縮めて固く目を瞑った。
――と。頭に何か載せられた感触がする。恐る恐る瞼を上げると、いつもの何処か悪戯っぽい目で尽が日輪を見ていた。
「ねえちゃんはまだまだお子様みたいだから、相手云々よりもこの本を読んでるべきだと思うぞ」
「もしかして、試したわけ……?」
答えはにんまりとした笑みだけだったが、それだけでも充分である。頭の上からベッドの上へと本が滑り落ちたその数瞬後、日輪は間近から素早く頭突きを炸裂させた。
「馬鹿尽!」
「ちょ、ねえちゃん洒落にならないぐらい痛いんですけどマジで!」
「当たり前でしょ! 痛いようにしてるんだもん!」
騒動に巻き込まれて捲れたページが、再び動き出した時間を確認するみたいにひらりと舞う。
ex * * *
志穂さんに電話を掛けるから。そう言った姉に今度はしっかりと部屋を追い出されてしまった。ドアにもたれたままで、尽は深く溜息を吐く。良い弟でいるのはなかなかにしんどい。
「ホント鈍感だよな、ねえちゃんは」
知らず漏れた言葉に気付いて苦笑する。それでも構わないはずなのに、時々無性に全てをひっくり返してしまいたくなる。さっきもそうだった。何だか日輪が拒まないような気がして、想いが溢れかけたのである。再度、嘆息した。そんなことはあるわけがないのに、そう自嘲気味に思う。
彼女が尽から離れたくない理由は恐らく精神的なものだ。
姉だからと変に弱みを見せないようにしているけれど、昔から日輪は酷く寂しがりだ。そして、弟という自分の存在が出来るまでに色々とあったらしく、置いていかれるということに過剰な反応をみせる――今回のことのように。大人になって変わってしまうイコール離れなければならないと思う辺りが、実に日輪らしく単純であったが、それでも姉にとっては思い悩むには充分なことだったのだろう。
尽はそこで思考を止め、ふと頬を緩めた。感情の種類が若干違うとは言え、離れるのが嫌だと、寂しいと言ってくれたことはやはり嬉しい。――と。ごん、という鈍い音が前触れなく自分の頭部から聞こえた。
「ごめんっ、ていうか、何でまだ居るの尽!」
座り込んで数拍遅れで来た痛みを堪えていると、ドアの隙間から顔を出した日輪が慌てた声を上げる。それで何が起こったのかが嫌でも解った。
「もしかして聞き耳でも……って、いや、それは後にするけど! えーと、その、大丈夫?」
黙ったままで居たのが不安になったのだろう、姉がしゃがんで間近から覗き込んでくる。頷いてからやや涙目で見返すと、はっと何かに気付いたみたいに日輪が距離を取ったのが解った。
「……ねえちゃん?」
「あれ? ごめん、何でも、ない」
日輪自身も戸惑った様子でそれだけを言う。横顔が少し赤くて、それはまるで尽を意識しているように見えた。期待が首を擡げてくるのが解る。痛みどころでなくなった。
「だ、大丈夫そうだね」
上擦った声を誤魔化すように笑って、それじゃ、と姉はその場から立ち去ろうとする。かなりぎこちない。
「待てよ、ねえちゃん」
「やだ!」
腕を掴むと、激しい抵抗にあった。それでも力ではもう負けなくなっているために彼女を捉えることは難くない。
「やだって、あのな、」
言い掛けた言葉が自然と止まった。潤んだ日輪の目を見てしまったからである。
「な、何も泣くことないだろ」
「! 泣いてないもん馬鹿尽!」
油断した所に鳩尾クリーンヒット。衝撃と痛みに息が詰まった。出来た隙に姉を逃す。
「ああもう、乱暴ねえちゃんめ……」
整わない息のままで、尽はひと気のなくなった廊下の先を見つめた。何だかやはり気のせいじゃない気がする。
「ねえちゃんがそういう態度を取るなら、オレだって考えがあるんだからな」
聞こえないと知っていても言わずにはいられない。尽はニヤリとした笑顔を作り、宣戦布告を付け足した。
「覚悟、しとけよ」
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