その手を離して
side * b
ずっと側に居るから大丈夫。震えるのを押し隠すみたいに小さくそう囁いた幼い声と握り返してくれた温かい手のひらを、こんな雨の夜はどうしても思い出す──。
* * *
閃光が目の端を過ぎる。
その直後に地の底から響いてくるような轟音が、降り続いている雨の音を一瞬だけ掻き消した。
ちら、と尽が視線を窓へと移したのと同時に、今まで点っていた明かりが前触れなく落ちる。辺りを覆い尽くした暗闇が、それまであった中と外の境界を曖昧にした。
停電である。
「ま、すぐ復旧するだろ」
焦ることもなく独りごちると、その語尾に少し離れた場所からの騒音が重なった。風呂場からのそれの理由は考えるまでもない。尽は姉が何かをしでかしたと確信した。
「ねえちゃん、平気かー?」
張り上げた声に苦笑が混じる。返事はなかったが、その分ぺたぺたぺたと早い足音がリビングへと近付いてくるのが解った。
「尽どこー?」
真っ暗な中で半泣きの声音で呼んでくる彼女に少し意地悪な考えが浮かぶ。
このまま返事をしないでいたら、きっと泣きながら何度も繰り返し自分だけを呼んでくれる筈だ。
想像に難くないそれはひどく甘く誘惑してきたけれど、尽は頭を振って追い払い、気配に向かって笑いかける。泣かせたくないという思いのほうがいつだってどうしても強いのだ。
「ここ。」
「ここってどこ……っうあ!」
新たな騒音と共にちょうど尽が居た場所へと姉が倒れ込んでくる。不意打ちに頭突きを喰らう形になってしまった尽は一瞬息を詰まらせた。石頭はこういう時が厄介である。本気で痛い。
「うー、痛たたた」
「……そりゃこっちのセリフだって。まったく、何やってんだよ、ねえちゃんは」
「だ、だって、何かに足引っかかっちゃったんだもん」
ようやく暗さに慣れてきた目が彼女の慌てた顔を捉えた。ごめんと口早に謝ってくるのを肩をすくめるだけで応えてみせる。
「ふぅん。雷も暗いのも相変わらず怖いんだ?」
「うっさい尽。しょうがないでしょ! ていうか自分だって小さい頃は──っ」
言い掛けた言葉が雷鳴で霧散した。それどころではなくなったらしい。彼女は小さく悲鳴を上げると手近にあった物(つくし)に思い切りしがみついてきた。
「ちょ、ねえちゃん、手ぇ離せって!」
柔らかな身体を押し付けられてしまっては、たまったものではない。
風呂上がりで温かなそれは凶悪としか言えず、あっさりと理性を保つことを放棄してしまいそうだ。
駄目だ。
そう、自分に強く命じて、尽は奥歯を噛みしめる。そうして、そのまま姉の身体を少しずつ引き剥がした。
「もう遠いから大丈夫だって。つーか、こんな所に落ちるわけないだろ。頼むからホント放してよ。きつい。色んな意味で。」
「やだ!」
「やだって、あのなあ!」
尽の内心の葛藤を露ほども気付いてない彼女は手から逃れて再びしがみついてくる。幼い子供のように憤って嫌々する仕草に、濡れたままの髪の毛からぱたぱたと雫が落ちた。その冷たさすら、尽を煽る材料になる。
「少しの間ぐらい我慢して優しくしてくれたっていいじゃんケチ尽!お姉ちゃんはあんたをそんな薄情な子に育てた覚えはアリマセン!」
「あー、もう! 解った、解りました!」
自棄気味に吐き捨ててから、打って変わって姉の身体を掻き抱いた。より密着したそこから伝わってくる早い鼓動に、気が狂いそうになるのを自覚する。堪えるのはかなり、辛い。
「……知らないからな、どうなっても。オレが保たなくなっても、ねえちゃんのせいだぞ」
苦し紛れの小さなその囁きは雷鼓に紛れて闇へと溶けていった。
* * *
ぱ、と唐突に付いた明かりに腕の中にある身体が微かに反応する。涙でぐちゃぐちゃの顔をそこから上げた姉が、目を覗き込んできてふわりと笑った。
「良かった。電気、戻ったね」
心底ほっとしたように言ってくる彼女に頷いて、尽は内心の安堵を隠して意地悪げに笑ってみせる。
「ねえちゃんは大騒ぎし過ぎなんだよ。子供じゃないんだから、もうちょっと何とかしたら?」
「……何とか出来るものなら何とかしてマス」
拗ねたみたいに口を尖らせた彼女はすっかりいつもの調子を取り戻していた。それをずるいとどうしようもなく思いながら、尽は嘆息する。
「何その溜息。言いたいことがあるなら言えばいいでしょ」
「べっつにー」
言えたらどれだけ楽だろう。そんなこともどうしようもなく思いながら尽は半眼を向けてくる姉に再度嘆息したくなった。
それを抑えて、それより、と言葉を繋げる。
「ねえちゃんはいつまでオレに抱きついてるわけ?」
いい加減、手、離してよ。言外にそう告げると彼女は思い出したみたいに、ばっと尽から跳ね退いた。
今更なのに、気まずいのと恥ずかしいのと照れくさいのでごっちゃになっているらしいのは、その表情からして明らかである。尽は思わずそれに吹き出していた。
「わ、笑うな馬鹿尽!」
「無茶言うなって」
悔しそうに呻く彼女を喉の奥で笑って、放り出されていたタオルを拾って頭に乗せてやる。
「?」
「もう雷も平気だろ? 風呂入り直した方がいいよ。身体、冷えてきてるからさ」
「え、あ、うん」
気が殺がれたように頷く姉に、尽はニヤリと笑って付け足した。
「一人じゃ怖いんだったら一緒に入ってやるけど?」
「馬鹿!」
再び柳眉を逆立てた彼女は踵を返して──返しかけて、止まる。そして。
「ありがと」
ぽつ、とそれだけ残して、廊下へと逃げるように消えた。素直でないそれはひどく彼女らしい。苦笑して尽は後ろにあったソファへと倒れ込んだ。自然とまた嘆息が漏れる。
「あと少しでも遅かったら、やばかったなんて気付いてないんだろうな、ねえちゃんは」
ありがとうの言葉が後ろめたい。だけど無事に受け取れた自分を褒めてやりたくも思う。尽は窓の方へと目だけやって、わしゃわしゃと髪の毛を掻き回した。
小雨に変わった雨音が春の夜に柔らかく響く。
side * s
不安げにしがみついてきていた小さな手が、守るように差し伸べられるようになったのは一体いつからだったのだろう──。
* * *
湯船に浸かって手足を伸ばすと自然と溜息が漏れる。少し冷えていた身体が徐々に温まってくるのを感じながら、彼女は浴槽の縁に頭を預けた。さっきまで響いていた雨音は今では殆ど聞こえなくて、雷もすっかり遠ざかっている。辺りは夜の静けさを取り戻していた。
何となく曇りガラスに向けていた視線を入浴剤で白く濁った湯へと落とす。そうしてぼんやりしていると昔のことが思い出された。
「尽だって小さい頃は一緒に怖がってたくせに」
ぽつりと呟いて、目を瞑る。
「泣きそうな顔してたの、忘れてなんかいないんだから」
でも、それはもう遠い日の記憶だった。雨や雷が怖いと言ってよく布団に潜り込んで来た小さな弟はもう居ない。それが寂しくて心細かった。ずっと一緒に過ごしてきた時間が、直に終わってしまう予感がした。
奥のほうにしまい込んでいる気持ちが、溢れ出しそうになるのを感じる。
駄目だ。
押さえ込むように、彼女は身体を縮めるみたいにして自分を抱き締めた。
姉として弟を守ってきた。──長年そう思い込もうとしてたけれど、自分の中の事実はどうやっても曲げられない。尽を必要としているのも、守られてきたのも本当は自分なのだ。
「ねえちゃん?」
不意に脱衣所から呼び掛けられて、我に返る。瞼を持ち上げるとシルエットだけの弟が少しだけ首を傾げる仕草を見せた。
「随分静かだけど、寝てないよな? 寝ると溺れるぞ」
「……起きてるもん」
声が震えないように意識して、それだけ短く返す。気付かないでと願いながら、いつの間にか頬を伝っていたお湯よりも温い涙を手のひらで拭った。
「なら、いいけど。なんかメール来てたから携帯ここに置いとくな」
「あ……っ」
離れようとした気配を思わず呼び止める。何?と当たり前のように応えてきた弟に見えないと知っていても頭を振ってみせた。
「何でもない。ありがと」
「ドウイタシマシテ。」
少し照れたような声を残して、尽の影が小さくなる。それを見送りながら、彼女は口の中だけでそっと囁いた。
「まだ、もう少しだけこのままで居させて」
顔の輪郭を辿った雫が小さな波紋を作って湯に溶ける。
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