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偽恋


≡1≡

 黄昏を迎える時間になっても真昼の残滓が空気を温ませている。直接的ではないものの、じわじわと染み込んでくるようなそれは、やはり暑い。はばたき市は海から吹く風があるだけまだ過ごしやすいと言われているが、それでも劇的に他の場所と違うということはない。少し動くだけでも汗ばむし、体力は容赦なく削られるのだ。涼しいのとは違う。
「まだ過ごしやすいなんて、あれ絶対気休めだと思う……」
 毎年思うことをぼやくように呟いて、日輪はスーパーの袋を持ち直した。ついでに、汗で額に張り付いた前髪を指先で払う。どうしても下向きになる視線を気持ちを引き締めるのと同時に上げると、まだ明るい空が視界に映った。夏の色をしたそれは目に鮮やかで綺麗だったが、明日も晴れで暑くなるのが安易に想像出来てしまって素直に喜べない。日輪はうんざりとした気持ちを嘆息に換え、止めていた足を再び前へ踏み出した。
「ちょっと! そこのお姉さん」
 真後ろから聞き知った声に呼び止められる。のろのろと視線を向けるとバイトの制服の上に薄手のカーディガンを羽織った奈津実が予想通りに立っていた。
「……なっちん」
「フラフラ歩いてると危ないよ。アンタただでさえ、あちこちぶつかったりするんだしさ」
「だ、大丈夫だよ。これでもちゃんと気を付けてるから」
「ホントかなぁ」
 疑わしげに見つめられて、日輪は誤魔化すように笑う。実は少し前、駅前のスーパーの中で置いてあったカゴに引っかかって転びそうになったとは言えなかった。
「それより、なっちんはこんな所でどうしたの?今の時間ってバイト中じゃなかったっけ」
 彼女のバイト先であるウイニングバーガーは同じ商店街の中でも一本先の本通りにある。店の前の掃除にしても距離が有りすぎて不自然に思えた。そんな日輪の疑問を納得したのだろう、奈津実はニッと笑って手に提げていた袋を持ち上げてみせてくる。
「ちょっと買い出し。店長のおごりで今日の夕飯は野花亭の鰻重なんだ」
「へえ、すごいね」
「でしょ。パチンコで勝ったんだって。最近負け続きだったみたいだから、相当嬉しいんだと思うよー。って、そんなことより日輪!」
 何かを思い出したみたいに彼女の表情がころっと変わった。日輪を手招きして、耳打ちしてくる。
「今日さ、バイトの子にアンタんとこの弟の噂話を聞いちゃったんだけど」
「な、何? 尽なんかマズイことでもやったの?」
 深刻な口調の奈津実に緊張して日輪は聞き返した。いつだってそつのない弟が噂になるぐらいに大変なことをしてしまったのだとしたら、姉として出来ることはあるのだろうかとか瞬時に考えてしまう。
「違う違う。何かね、タマぷー弟とデキてるんだって」
「……出来てる?」
 意味が理解できずに繰り返すと、奈津実が苦笑した。そして、言葉を添えてくる。
「何が、とか言わないでよ? 要するに、恋愛関係にあるんじゃないかって噂」
「ええ!?」
 やっと呑み込めたそれに頭がくらくらした。でも、確かに言われてみれば、いつだって二人は一緒に居るし、女の子と遊ぶことはあっても、ちゃんと付き合ってるわけではないみたいである。尽の心に玉緒が居るのなら、それは納得出来なくもなかった。
 日輪は気持ちを落ち着けるようにゆっくり息を吐く。
「──そ、そっか。びっくりしたけど、ここはやっぱり、お姉ちゃんとして応援するべき、だよね」
 自分に言い聞かせるように口に出すと、奈津実は頭痛を堪えるみたいにこめかみの辺りを押さえた。
「あのさ、日輪。それ本気で言ってる?」
 呆れたような声音に目を瞬かせる。
「え、本気だけど?」
「……だよね。うん、いや、解ってたけどさ。アンタはそうだよね」
 一人頷く奈津実に訳がわからなくて尋ねようとした日輪だったが、目の端に入った見知った顔に、その先の言葉を飲み込んだ。
「尽」
 代わりに名前を呼ぶと、奈津実も気付いたように視線を向ける。
「噂をすればってやつかな。タマぷー弟と一緒じゃないの?」
 面白がるような口調の彼女に尽はあからさまにげんなりした表情を浮かべ、大股で近付いてきた。
「そこまで居たけど、鳩屋の今川焼きが特売だから、とか言って逃げました。あいつ、奈津実さん苦手だから」
「ふーん。タマぷー弟のクセにいい度胸してるじゃん」
「次会ったら、好きなようにしていいですよ。──で、すんごいヤな予感するけど、噂ってもしかしてアレ?」
 何故か疲労が滲んだ声で訊いた尽に、奈津実はにっこり笑って頷く。
「何でこんな所まで広まってんだよ……!」
 吐き捨てるように言って、頭を抱えた弟に日輪は焦って励ますように声を掛けた。
「だ、大丈夫だよ尽! 私は応援するから!」
「なっ、ちょっと待てよ、ねえちゃん! 何でそんな噂信じちゃってるわけ!?」
 二人のやり取りに奈津実は堪えきれなくなったように吹き出す。尽は恨めしげにそんな彼女を睨んだ。
「単純で何でもすぐ信じて面白いのは解るけど、こんな話まで吹き込むのは止めて下さい」
「ごめんごめん。つい」
 目元の涙を拭いながら、あまり悪びれずに謝って奈津実は日輪に向き直る。
「って、わけでデマなんだよね」
「デマって……尽と玉緒くんが好き合ってるわけじゃないってこと?」
 呆然と呟くと尽はがっくりと肩を落とした。
「当たり前だろ。頼むよ、ねえちゃん。少しはオカシイと思ってくれ」
「だって、そういうのも有りかなーって思ったんだもん」
「有りじゃないから! 大体さ、何で玉緒が好きとかになるんだよ。オレが好きなのは……っ」
 そこまで言い掛けて、はっとしたように尽は口を噤む。日輪は瞬いてそんな弟を見つめた。
「好きなのは?」
 続きを促すと珍しく焦った様子で尽がそれはともかく、と話を転じる。
「頼まれたって野郎相手なんて勘弁して欲しいって思うね」
「ふぅん。で、好きなのは?」
 ニヤニヤしながら日輪と同じことを口にして話を戻そうとする奈津実を尽は半眼で睨んだ。
「なーつーみーさーん」
「やっぱ噂に対抗するには新しい噂でしょ! 尽に実は彼女がいるって噂流したら、そっちのほうがメインになると思うんだよね。結構いけそうじゃない? ってわけで、この機会に告白しちゃえー!」
 拳を振り上げて一人盛り上がる彼女を余所に尽は溜息を吐く。
「そんなことが出来たら苦労してないって。──奈津実さんだってホントは知ってるクセに」
 らしくなく弱々しく笑う弟を日輪はびっくりして凝視した。こんな大人びた表情は今まで見たことがない。
「まあね。けど、実際は何が起こるかなんてわかんないじゃん?」
 奈津実のもっともな言葉で我に返った。慌てて同意するように頷きかけ──、そのままの姿勢で止まる。今更ながらに気付いたことがあった。
「もしかして。なっちんって尽の好きな人知ってるの?」
「うん。」
 恐る恐るの問いは、あっさりと肯定される。日輪は信じられない気持ちで隣に立つ弟のネクタイを思い切り引っ張った。
「ってぇ! 何だよ、ねえちゃん!」
「何だよってあのね、それは私が言いたいよ! 何で私には教えてくれないわけ!?」
「教えたわけじゃないし、言えるわけないだろ!」
「何それ。ズルい!」
「ズルくなし!」
 むっとして尽を睨み付けるその視線の間に、ひらひらと手のひらが割って入る。
「はいはい、ケンカしないの。するほど仲が良いのは解ってるけど」
 苦笑混じりの奈津実に、ネクタイを放しつつそんなことないもんと小さく反論するが取り合っては貰えない。
「悪いんだけど、そろそろアタシ戻らないといけないから、その前に一つだけ口出しするよ」
「口出し?」
「そ。ホントに教えて貰ったわけじゃないから、実際はアタシが思ってるのとは違うかも知れないってこと。まあ、さっきの言い方だと間違ってるとは思えないけどね。そうそう、尽本人気付いてないけど、態度でかなりバレバレだから。アタシの他にも解っちゃってる人も居るかもよ」
「……マジで?」
 思わず口をついて出たみたいな呟きは尽で、日輪が見返すとつい、と逸らされた。どうやら照れているらしい。
「以上、口出し終わり。んじゃ、また連絡するから!」
 悪戯っぽく笑ってから、彼女は踵を返して軽い足取りで駆けていく。ぼんやりとその背中を見送っていると尽が大きく息を吐くのが聞こえた。
「ここに居ても仕方ないし、帰ろうぜ、ねえちゃん」
「え、ああ、うん」
 曖昧な頷きに手が伸ばされる。その手は少し強引に日輪からビニール袋を奪って、そのまま促すように前のほうを示した。
「ほら、突っ立ってないで歩く」
「解ってるよ。──それ、ありがと」
 付け足しみたいに告げた言葉に、どういたしましてと妙に慇懃な返事が返ってくる。からかってるのだろうかと睨み付けた先にあったのは、しかし予想外に柔らかな笑顔だった。日輪は何故かぎくりとして息を詰める。
「何だよ?」
「……何でもない」
 訝しげに首を傾げた弟に頭を振ってみせた。自分でも不可解な感情を説明なんて出来るわけがない。
「なら、いいけどさ」
 あっさりした言葉にほっとした気持ちになって、日輪は小走りで尽の隣に肩を並べた。
「ねえ、やっぱり教えてくれないの?」
「どうしてそんなに知りたがるんだよ。別にいいじゃん?弟が誰が好きかなんてさ」
 戯けたような口調にちらりと目だけ向ける。口元に見える微かな苦笑に、一瞬遅れて自責の念が沸いてきた。
少ししつこかったかも知れない。誰だって触れられたくないものはあるはずだ。姉弟だからと言って全てを知っている必要はないし、日輪がそれを寂しいと思っても尽に押し付けるのは間違っている。
「ごめん。聞かれたくないなら、もう聞かない」
「なんて顔してんだか」
 どうやら気落ちが出てしまったらしい。慌てて表情を引き締めてみたが今更だった。尽が困ったみたいに笑う。
「聞かれたくないっていうか。ただ、本当に言えないだけだから、今は」
「今は?」
 聞き返すとしっかりとした頷きが返ってきた。
「いつか、ちゃんと言うって」
 真っ直ぐな目が向けられて、日輪は少し戸惑う。でも、尽がそう言うなら本当にそれは守られることだ。嘘はない。
「ふぅん、そっか」
 浮上した気分のままにスキップする。一メートルほど先を行って振り返ると、ちょうど肩を竦めた尽と目が合った。
「ねえちゃんは単純でいいよな」
「ケンカ売ってるわけ?」
「あ、違った。素直な、素直」
「言い直しても遅いよ」
 追い付いた背中を軽く打ってから拗ねてみせる。尽は目を細めたが、すぐにそれを虚ろな笑みへと変わらせた。
「あーもう他の奴も、そうやって信じてくれれば苦労しないのに。違うって言っても余計あやしいとか言われるしさ。玉緒と一緒に居ると、どこに居ても何してても見張られてんだぜ? トイレでまで視線感じた時はビビったよ。嫌になるっていうか、さすがにオレでも参る」
 つらつらと語られる内容に絶句した。何でそこまで、と思ったが、多分それを一番感じているのは本人達なのだろう。返す言葉が見付からなくて、慰めるように腕を柔らかく叩く。
「ええと、玉緒くんは何か言ってる?」
「七十五日保てば面白いよね、だと。あいつは図太すぎるっつーか、他人気にしなさ過ぎるっていうか」
 思い出して疲れたように嘆息する尽を日輪は覗き込んだ。
「あのさ。なっちんが言ってたこと、試してみるのもいいんじゃない? ほら、噂には噂をってやつ」
「……何だよ。ねえちゃんも告白しろとか言うのか?」
「そうじゃなくて、誰かに頼んで彼女のフリをして貰うとか、彼女が居るように見せかけるとかでもいいんじゃないかな。他の種類の噂でもいいけど、やっぱり恋愛系のが強いでしょ。なんか聞いた感じだと簡単には消えなさそうな気がするんだもん。夏休み入るけど、それで治まる保証はないし。嫌な状態なら早めに何とかしたほうがいいって思うよ」
 考えながら告げたそれを頷きで締める。そんなに見当外れではないはずだ。
思案するように黙り込んだ弟をちらっと見遣ってから、日輪も黙してゆっくり夕暮れの中を歩く。商店街を抜け、小さな公園の前も通り過ぎる。住宅街をもう少し行けばすぐに自宅だ。
「そうだな。駄目もとで試してみるか」
 屋根の濃藍が見えてきた所で、独りごちるみたいに尽が呟く。目を隣に移すと、ニヤリとした笑みが向けられていることに気付いた。嫌な予感がする。
「てなわけで、ねえちゃん。自分で言ったんだし、協力してくれるよな」
「協力って……何?」
 怯みながらの問い掛けに、極甘い声で尽が耳に囁いた。
「彼女。なってくれるだろ」
 有無を言わせないそれに、日輪はただ硬直する。


≡2≡

「あっははは! じゃあ今日が二人の初デートだ」
「笑い事じゃないよ、なっちん」
 対面席の奈津実を恨めしげに睨んでから、日輪はアイスティーの中にガムシロップをたっぷり注いだ。ストローで混ぜると、細かい氷がグラスの中でぶつかり合って澄んだ音を響かせる。
「困ってるみたいだから何とかしたいって思ったよ? でも、だからって!」
 学生は夏休みに入ったとは言え、世間はそうでない。平日の昼過ぎの喫茶店は人も疎らで静かだった。思わず声が高くなってしまったことに気付いて、日輪は慌てて最初に説明した時の音量に戻す。
「……そりゃ一番簡単に頼めるかも知れないけど、私じゃ色々無理があるのに」
「そう? アタシは結構いけると思うよ。昔はともかく、今は全然似てないもん。知らない人から見たら姉弟って解らないと思う」
 面白がるような目を向けられて、言葉に詰まった。先にそれを言われてしまったら、どうしようもない。
「で、でも、恋人の演技とかだって出来ないし……」
「まーだそんなこと言ってるわけ? 往生際が悪いな、日輪」
 声が降ってきたのと、背後から抱きしめられたのは同時だった。驚きに手の中でストローがへし折れる。
「お待たせ」
「ちょ、尽、何その呼び方!?」
「外で待ち合わせもそうだけど、付き合ってるように見せるためには、このほうがいいかと思ってさ」
「い、今からやる必要ないから!」
 身体に回された腕を必死に剥がすと尽が不満げな声を上げた。それを無視して、気を静めるようにアイスティーを勢いよく口に含む。
「聞いたよ、尽。アンタ的に一粒で二度オイシイ作戦じゃん」
 片手をあげた奈津実にニッと笑って、尽は日輪の隣の席に腰を下ろした。
「でしょ。でも、本人がずっとこんな感じで。デート費用だってオレが持つって言ってるし、フリするのが無理ならオレだけがそう見えるようにするって言ってんのに聞かないし。夏休みだけって期限も決めてるし、成功したら一つだけねえちゃんの頼みも聞くって言ってるんだけど」
 全く何が気に入らないんだか、と大げさに息を吐く弟を睨む。
「何を気に入ればいいか解らないんだけど」
 低く呻くように言ってから、でも、と言葉を継いだ。
「もういいよ。覚悟決めるから。傍目から見て、姉弟って解らないみたいだし」
 憮然と告げると尽が一瞬だけ口元に微苦笑を浮かべる。それに引っかかりを覚えるが、奈津実の声ほうに意識が持って行かれた。
「具体的にどうするの? 面白そうだし、アタシも協力出来ることがあるならするよ」
「昨日のうちに日比谷妹にメールで噂を流すように頼んであるから、あとはあちこちで目撃者を作ればオッケーかな、と。奈津実さんもバイトの時、はば学のバイト生にそれとなく匂わせて貰えれば助かります」
 既に行動を起こしていたとは知らず、日輪はぽかんとする。抜け目がないのは解っていたつもりだが、目の当たりにするとそれに呆れるよりも感心するほうが強かった。
「それぐらいだったらお安いご用」
「感謝。」
 奈津実に短く言って、尽は日輪のアイスティーにさり気なく手を伸ばした。あ、と思った時にはもう遅く、勝手に口に含んで顔を顰めている。
「ねえちゃん、ガムシロ入れすぎ……」
「断りもしないで飲んでおいて文句言わないでよ」
 弟の手からグラスを奪い取ってそのまま呷った。冷たさに頭が少し痛んだが、それを強引に堪えて顎を反らして見せる。
「ほんっとアンタ達って仲イイわ。イチャついてるようにしか見えないもん」
「い、いちゃ……!? どこが! 全然違うでしょ!」
 否定の言葉はしかし、尽からはない。日輪は涼しげな顔をしている弟の背中を腹立たしさに任せてバシバシと叩いた。
「痛いって、ねえちゃん。ちょっとは落ち着けよ。いいじゃん、そのほうが都合いいんだから」
「だよね」
 同意した奈津実は頬杖をついて、ニヤリとした笑みを浮かべる。
「ま、アンタのその反応は楽しいけど」
「なっちん、ひどい」
 むくれると屈託のない笑顔でごめんと返されてしまった。憎めなくて、溜息でその感情を流す。
「……あんまり遅くなると夕飯の買い物が出来なくなるから、そろそろ行こっか、尽。またね、なっちん」
「そうだな。奈津実さんは今日は写真?」
 頷きざまに立ち上がった尽が彼女の足下に置かれたケースに目を留めた。釣られたように日輪もそれに目を遣ると、奈津実が少し照れたように笑う。
「そ。今日は休みだから撮りまくる日。アンタ達も街で見掛けたら撮ってあげるね!」
 シャッターを押すそぶりを見せてから悪戯っぽく片目を瞑った彼女に、日輪は小さく笑ってVサインを指で象った。


「奈津実さんて本当にカメラが好きなんだな」
 直射日光を避けるみたいに屋根のある場所を選んで歩きながら、尽がしみじみとした調子で言う。それが何だか嬉しくて日輪は弟の顔を覗き込んだ。
「今度尽も撮った写真見せて貰うといいよ。きっとびっくりするから。すごいんだよ、ほんとに。難しいことは解らないけど、私はすごい好き。ええと、何て言ったらいいのかな」
 彼女の撮る写真は温かく、それでいてキラキラしたものが詰まっている。初めて見せて貰った時のことを思い出すと、今でも興奮するぐらいだ。それを言葉で伝えようとして、でも上手く伝えられないことに気付いて、もどかしさにそのまま唸る。尽は解ってるみたいにくすくす笑うと、日輪の眉間を指先で軽く弾いた。
「大絶賛なのは解ったって。今度頼んでみる」
 眉間の皺は癖になるんだからな、と揶揄するように言われてむっとする。尽はそれをも読んでいたように笑うと、さり気なく日輪の手を取って繋いだ。フリだと解っているのに、慣れないことに身体がどうしても緊張する。子供の頃とは違う、尽なのに尽でないみたいな大きな手が余計に落ち着かない気分にさせた。
「これぐらいで照れてどうするんだよ、ねえちゃん」
 日輪だけに聞こえるぐらいの声で低く囁いた尽にうるさいとだけ返して、半ば自棄になって繋いだ手に力を込める。

* * *

 商店街を道なりに進むと駅前広場が見えてくる。はばたき駅と今通ってきた道とは別の、映画館通りとゲームセンター、カラオケ、ボーリング場のある通りとがそこで一つに交わっていた。
「電車で新はばたき駅まで出てショッピングモールで買い物がいいかと思ってたんだけどさ、よくよく考えたら先週、志穂さんと行ったんだよな」
 確認するみたいに言って、尽はこめかみの辺りを指で引っ掻く。日輪はそれに頷いてから、首を傾げた。
「尽が何か見たい物あるんなら、付き合うよ?」
「オレは特になかったんだけど。日輪は浴衣とか見なくていいのか?」
 八月の第一日曜にある毎年恒例の花火大会へは確かに毎回浴衣で出掛けていて、そろそろ新調したいと口にした記憶はある。でも、それは去年だ。そんな他愛ないことを覚えていたらしい尽に少し驚きつつ、日輪は緩く頭を振った。
「志穂さんと行った時に買っちゃった」
「へえ、どんなの?」
「黒でね、こんな感じに立涌模様が入ってて、これぐらいの椿の花が描かれてるやつ」
 身振り手振りを加えつつ説明するが、尽の反応はいまいちである。曖昧な言葉が多いから解りづらいのかも知れないと思いつつ、日輪は大きく息を吐いた。
「いいよ、もう。当日好きなだけ見せたげるから」
「ってことは、もしかしてオレと一緒に行ってくれるわけ?」
 弾んだ声に、う、と詰まる。真っ直ぐ向けられる視線に照れくさくなって、慌てて日輪は顔を背けた。
「しょ、しょうがないでしょ。今年はちょうど他に一緒に行く人が居ないんだもん。尽が空いてるなら都合がいいかなって」
「ま、何でもいいけどね。オレは一緒に行けるなら嬉しいからさ。楽しみにしてるよ」
 素直な言葉に余計顔が戻せなくなる。これもきっとフリなのに、どうしようもなく振り回されている気がした。姉で、年上なのにこれは情けない。
「何だったら当日、着付けしてやろうか」
 気付いて面白がってるようなその口調にむっとして、日輪はすぐ側にあった弟の足を思い切り踏みつけた。

* * *

 結局ショッピングモールで買い物は、ゲームセンター巡りに変更になった。クレーンゲームで気に入ったぬいぐるみを取って貰ったり、レースゲームで逆走の末にクラッシュしたり、メダルゲームでメダルを荒稼ぎしたり──そんなことをして過ごすうちに、変に力んでいた部分が薄れてきたのを知る。尽が言ったように、日輪は本当にいつも通りにしているだけでいいのだから。手を繋いで歩くのも、真っ直ぐに向けられる言葉を受けるのも、何だかくすぐったくてふわふわするが、そう悪い気はしない。妙に照れるということさえ除けば、優しくされるのはやっぱり嬉しいのだ。気付いたそれに、ちら、と隣に視線を向けると尽が目を瞬かせる。
「何だよ。あ、もしかして疲れた? 暑いの苦手だもんな」
「え、ううん。あー、でも、やっぱり少し休んでもいい?」
 歩きっぱなしだったことを思い出すと、足が急に重たくなってきた。そんな自分に苦笑して、日輪は少し先にあるアイスクリームの店を指で差す。
「C・S・Cのアイスが食べたい」
「いいけど、太るぞ?」
「うっさいな。それぐらい大丈夫なの!」
 喉の奥で笑った尽をぬいぐるみパンチで制裁を下して、そのまま引っ張るように歩き出した。


「げっ」
 店内に入った途端、尽が思わずと言ったように声を上げる。その固定された視線の先を辿った日輪はそこに彼の姿を見付けて目を数回瞬かせた。
「玉緒くん!」
「こんにちは、日輪さん」
斜め前の席を陣取っていた彼は疾うに気付いていたらしい。日輪に向かって応えるように、にこりと微笑む。
「人をダシにしてイイ思いをしてる癖に随分な態度じゃない、尽?」
 表情は変わっていないはずなのに、尽に対するとそれは全く違うように見えるのは気のせいだろうか。そんなことを思っていると隣で弟が呻いた。
「条件反射。でもそれ、自業自得だぞ。だってお前、日頃の行いが」
「日輪さん、良かったらここに座って下さい」
「聞けよ!」
 あっさり飽きたみたいに会話を打ち切った玉緒に尽が非難の声を上げる。
「そこ、邪魔になるから、とりあえず注文でもしてきたら?」
 マイペースにしれっと告げた彼に尽は長く息を吐き出した。無駄を悟ったような顔は酷く疲労を感じさせる。
「え、ええと」
 言葉を探してると尽は待ってて、とだけ言い置いてカウンターへ向かって行ってしまった。不満らしきものを零す後ろ姿はやけに哀愁の色が滲んで見える。
「さてと。邪魔者が居ないうちに少しお話ししましょうか」
 玉緒はそれを楽しげに見送りつつ、大きなカップの中のアイスをスプーンですくった。
「話?」
「ええ。今回の噂がどのようにして出来たか。日輪さんは興味ありませんか?」
 思わせ振りな口調で言う彼を見直す。
「偶然で、いきなりあんな突拍子もない噂が生まれることはありません。昔から言うでしょう? 火のないところに煙は……って」
 アイスを口に含んだ玉緒は少し目を伏せるようにして笑った。
「本人が無意識でも些細なことがきっかけになるから面白いですよね」
「それってつまり、尽自身は知らないけど、何か自分で原因を作ったってこと?」
「そうです。自業自得、と言えなくもないんですが、まあ、今回はちょっと運の悪さも手伝ったかな」
 思い出しながらしみじみと言う彼を凝視する。かなり細かいことを知ってそうだ。日輪は誘惑に耐えられずに身を乗り出した。
「聞かせて」
 頷く代わりみたいに微笑んで、玉緒は言葉を紡ぎ出す。
「告白を断る常套句『好きな人がいるから』を尽も酷使してるんですが、つい先日、ある女生徒──仮にAさんとしますが、そのAさんにも使いました。でも、そのAさんは勇敢な人で、尽に聞いたんですよ。その好きな人は誰なのかと」
 黙って続きを促すと、悪戯っぽく彼の目が眇められた。
「『悪いけど、言えないんだ』というのが尽の返答でした。ごめんともう一度謝ってAさんの前から去った尽はここで終わってると思ってるみたいですが、続きがあります」
 一度玉緒はそこで切って、喉を潤わすみたいにアイスを口に運んだ。
「Aさんは少し離れた場所に待機していた友人達に報告しました。好きな人は言えない人だとも告げます。その友人達はAさんを労いつつも、言えないような相手って誰なんだろうという話で盛り上がり始めました。その中に男同士の恋愛話が好きな人が居たらしく、いつも連んでいる僕の名前が挙がりました。まさか、とその場では皆笑ってましたが、あり得なくないと思った人が居たんでしょう」
 その言葉にぎくりとして思わず目を泳がせる。日輪もそう思ったなんて言えるわけがなかった。
「日輪さんは隠し事が下手ですね」
 容赦のない一言は痛いけれどもっともで、曖昧に笑うしかない。玉緒はしかしそれ以上追及しないで、先を続けた。
「その後、その時の人が別の人と話します。考えてみれば、あの二人ってあやしいよね、と。それをたまたま耳に挟んだ生徒が別の人に話します。ちょっと聞いたんだけど、あの二人って出来てるらしいよ、と。そこから先は言わずもがなってやつですね。放課後、日比谷さんが教えてくれた時にはすごい尾ひれが付きまくった話になってましたよ。まあ、こんな感じであの噂は出来上がったというわけです」
 他人事のように説明を終えると、彼は最後の一口を口に入れる。日輪は暫く言葉が出なくて、呆然と視線を彼の手元のカップに移した。たった一言。それからの憶測が原因だったなんて、理不尽過ぎる。
「おい、玉緒。何勝手に日輪を凹ませてんだよ」
 怒気の含んだ声に顔を上げると、何も知らない弟がアイスを手に戻ってきていた。昔からイイ男になると豪語しつつ裏で努力してただけに、その姿すらも人目を引きつけている。つまり、それだけ興味を持たれやすいということで、ゴシップの対象になるのに不足ないということなのだろう。きっと。
「……でも、やっぱ理不尽だ」
 思わず声になったそれに尽は訳がわからないといった表情で玉緒を見遣る。
「言っとくけど、僕のせいじゃないよ。アイスが遅かったからじゃない?」
「何でもないから気にしないで。アイスありがと。──玉緒くんが詳しいのはその場で見てたから?」
 前半を尽に、後半を玉緒に向けつつ小さいほうのカップを受け取った。ついでにキャラメルがたっぷり掛かったバナナを一口頬張る。甘くて美味しい。
「ええ、まあ。偶然居合わせたんで」
 にっこり笑って言うけれど、その偶然は流石に日輪でも出来過ぎているように思えた。引きつったように笑って、スプーンでアイスをすくう。
「何の話?」
 話が見えてない尽が居心地悪そうに聞いてくるが、答え辛い。迷って、ちら、と玉緒に視線を送る。
「僕と日輪さんだけの秘密の話。」
 応えるように煙に巻くように言ってくれた彼にこっそり感謝していると、尽が拗ねてテーブルに方肘を付いた。

* * *

 玉緒と別れてからスーパーで少しだけ買い物をして、日輪と尽はそのまま家路へと付く。
過ぎてしまえば、デートの時間はあっという間だった。予想では辛いものになるはずだったのに、それは明らかに違っていて、日輪は考えを改めるしかないと苦笑する。
「……今までずっと何かの間違いかと思ってたんだけど、今日出掛けて尽がモテるのも解ったような気がする」
「な、何だよ急に。変なねえちゃんだな」
 きまりが悪そうに声を上擦らせる弟に小さく笑って、繋いだ手を前後に大きく振った。
「んー、だって一緒に居て楽しかったもん。それってやっぱ大きいかなって。──尽に想って貰える子はいいよね。すごい大事にして貰えそうだし。私でさえこんな風なんだから」
 軽口が返ってくると決めつけて笑顔を向けて、そのまま固まる。想像していなかった酷く切ない目が日輪を捉えた。息が詰まるほどのそれから逸らせなくなる。
「……尽?」
「ごめん。何でもない」
 声の後に張り詰められていた空気が、ふ、と緩んだ。しかし、代わりに浮かべられた微苦笑は問い質すことを拒んでいるように見えて、何故か微かに胸が痛む。
「──ね、今日は焼きナスにしていい?」
 居たたまれなさを誤魔化すように殊更に明るく話題を変えると、一瞬尽は呆気に取られたように目を丸くし、それから遅れて溶けたように笑った。
繋いだ手に力が込められて一瞬意識がそこに集まった隙に、ありがとうという言葉が日輪の耳を掠めていく。


≡3≡

「ねえちゃん準備出来たかー?」
「あと三分だけ待って!」
 階下からの声に慌てて返事をして、日輪は姿見の前でくるりと一回転した。帯の位置と衣文の抜き具合を確認してから、姿勢を正して鏡の中の自分を見つめる。余所行きに作ったその顔はしかし、ほんの数秒であっさりと崩れた。新しい浴衣にどうしても頬が緩んでしまう。些細なことでも、やっぱり嬉しいものは嬉しい。
「ま、こんなもんでしょ」
 頷きと共に呟いて、視線を一度壁の時計に向けた。針は十八時の少し前を指している。今から出れば充分花火には間に合うだろう。
日輪はベッドの上に置いておいた巾着に手を伸ばし、いつもより淑やかを心掛けつつも自室を飛び出した。


「やっと来たよ。遅い、遅い。日が暮れちゃうよ」
 日輪の足音に気付いたのだろう、尽が玄関でわざとらしくどこかで聞いたようなセリフを口にする。
「花火なんだから、日が暮れたほうがいいんじゃないの」
 呆れたように言葉を返すと振り返った尽と目が合った。憎まれ口を予想して身構えたが、いつまで経ってもそれがない。ただ、じっと見つめられるだけで、段々と居心地が悪くなってくる。
「──もしかして、どこか変? すごい似合ってないんだったら、そう言っていいよ」
 自分の感覚では平気でも他人から見たらおかしいのかも知れない。浮かれた気分が急にしぼんでいくのを感じながら、日輪は視線を床に落とした。
「変なんかじゃないって。その浴衣、ねえちゃんによく似合ってる」
 声に目を上げると、弟の手が頭の上の簪を少しだけいじるのが見える。ビーズ飾りが付いたチャームが揺らされて耳元でしゃらしゃらと音を立てた。
「すげー綺麗でびっくりした」
「いいよお世辞なんて言わなくて」
 反射的に出た言葉はあまりにも可愛くなくて、日輪は自分が嫌になる。褒められて嬉しいのに、何故か素直にそれが表現できない。前から弟だからと意地を張る部分はあったけれど、火照った顔すら見られるが恥ずかしいなんて、少し何かがおかしかった。素早く下駄を履いて、尽より先に外に出でる。笑って、ありがとうを言うのがこんなに難しいなんてどうかしてる。
「その態度で却って照れてんのがバレバレなんだけど」
「照れてないもん」
 楽しげな背後の声に自棄で返事して、温い風に煽られた前髪を押さえた。
「まあ、そういうことにしておいてもいいけどね」
 戸締まりを終えたらしい尽が日輪の前へと回り込んで目を細める。
「顔が赤くても暗くなってきたから見えないもんな」
「尽って意地が悪い」
 悪あがきにすらならなかったことを表情で察して、悔しげに唸った。
「意地が悪いオレとは一緒に行きたくなくなった?」
 差し出された手と笑った顔を交互に睨んで、でも日輪は憮然とその手を取った。
「約束は約束」
 不機嫌なその呟きに十八時を告げる鐘の音がちょうど重なる。

* * *

 臨海公園地区に特別に作られた花火大会の会場は、二人が着いた時にはもう既に人でごった返していた。年々、この会場へ足を運ぶ人が増えているのは知っていたが、去年と比べると倍以上に混んでいるように見える。
「今年は二十回目の開催になるから、記念に二尺玉の二十連発があるんだってさ。それを大々的に宣伝してたから、混んでるんじゃないかな」
「ふーん、そうなんだ」
 かき氷を食べながら尽の説明に頷いた。そういうイベントがあるなら納得だ。
「そういや、奈津実さんからその後の噂、聞いたか?」
 少し声を落とした尽が意味深に笑う。それに日輪は目を瞬かせた。
「何回か一緒に出掛けてるみたいだからそのたびに目撃者はちゃんと増えてるよって。上々じゃんって言ってたけど。それの他に何かあるの?」
「なんか、謎の年上美人と付き合ってるんだってさ、オレ。何でもモデルだとかどこかの社長令嬢とか色んな説が出てるらしいぞ」
「……むぐっ」
 思わず叫びそうになったが尽の手に押さえ込まれて、くぐもった声だけになる。
「オレも聞いた時びっくりした。年上美人しか合ってねえ! って。何でそんな余計なものが付随されるんだろうな。遠くから見るとそう見えるのかな」
 くすくすと楽しそうに弟は笑うが、日輪はそれに頷けなかった。本人には年上のところしか当てはまってないように思える。恥ずかしいばかりだ。
「ねえ。夏休みが終わったらどうするの?」
 期限は夏休みいっぱい。そういう風に頼まれていたが、その後については全く聞いていなかった。ふと思い出してそれを尋ねると、尽は言ってなかったっけと苦笑して首筋を指先で引っ掻く。
「ほとぼりが冷めたら、オレが愛想をつかされて振られたってことにしようかと思ってる。それで全部元通りになる予定」
「そっか。じゃあ、こうして花火とか一緒に来ることはもうないんだね」
 無意識に口をついて出た言葉に自分でびっくりした。尽も驚いたようにまじまじと日輪を見つめている。
「あ、ええと、その。ちょっと残念だなって思って。ずっと楽しかったから。……ごめん、おかしいかも私」
 しどろもどろな弁解に尽が柔らかく笑った。
「おかしくないよ。めちゃめちゃ嬉しい」
 でも、と言葉を継げる。
「オレはもうフリは終わりにしたい」
 囁くみたいにそう言って、視線をそのまま日輪から外した。眼差しが遠い──胸が軋むように痛む。日輪は変わらないで、このまま過ごせるとどこかで思っていた自分を知る。だけど、それは叶わない。当たり前だ。考えてみれば、尽には好きな人が居るのだから、その人にまで誤解されたままではきっとすごく辛い。
そこまで思って唇を噛みしめた。気付いてしまったことに日輪自身も辛くなる。
 頭では解っているはずなのに、気持ちだけ違う。散々フリだと口にしながらも、日輪がしていたのはフリなんかではなかった。恋人のつもりになっていたのだ。
 ──いつ、そう変わってしまったのかはわからない。でも、いつの間にか尽の言葉全部が本当だと錯覚していた。優しいのも甘いのも、本来ならその想う人へと向けられるもので、姉である日輪のものじゃないというのに。
「日輪?」
 訝しげに呼ばれて、慌てて笑顔を作ってみせた。何でもないと緩く頭を振って、自分の感情を戒める。尽は弟だ。恋人なんかじゃない。
「そろそろ花火始まるね」
 それでも繋いだ手を離すことが出来ずに、日輪は泣きたくなる気持ちを抑え込んで、静かに弟に呟いた。

* * *

 音のあとに夜空に小さな花があちこちで開く。千輪とも千輪菊とも呼ばれるその花火が連続して打ち上げられている最中、不意に日輪は腿の辺りに生暖かい感触を覚えて身体を強ばらせた。一瞬脳裏に浮かんだ言葉があったが、すぐにそれを振り払う。酷く混雑しているから、ただ触れてしまっているだけだろう。そう願うように思って意識を空に戻した。だが、それはすぐに裏切られる。温いものが無遠慮に浴衣の上から輪郭を確かめるように動き、荒い息づかいを側で聞いてしまったのだ。
「……っ」
ぞわりと嫌悪が走る。抵抗して身を捩ったがそれは離れないで、反応を面白がるように執拗さを増した。嫌だと叫びたいのに、恐怖に囚われて喉が凍り付いたみたいに声にならない。
「何だよ、日輪。どうか……」
 すぐ隣の尽が途中まで言い掛けて、息を飲んだのが伝わってきた。強引に日輪を引き寄せたのと触れていた手が逃げるみたいになくなったのは同時で、日輪はその両方に安堵する。
「くそっ!」
 人混みに消えたそれに鋭く吐き捨てた尽は、痛いのを堪えるみたいにきつく目を閉じた。気を静めるようにゆっくり呼吸をして、やがて日輪の目に視線を落としてくる。
「──帰ろ」
 ぽつ、とそれだけ告げた弟は少し押し退けるみたいにして人垣を切り開いていった。迷惑げに睨む人、不満げに声を上げる人が居ても構わないみたいに手を引いて、ただ無言で足早に進んでいく。それは二尺玉の打ち上げが始まっても同じだった。身体の芯が震えるような轟音がしても振り向こうとしない。
「ぁ……」
 呼び掛けようと日輪は口を開いたが、声はまだ上手く出なかった。もどかしくなって俯くように目を繋がれた手へと移す。そこだけが熱を帯びたみたいに熱かった。
下駄の音と同じように早くなる動悸を持て余して、日輪は大輪の花に霞む夜空を見上げる。


 いつもより雑な動作で鍵を開けた尽に続いて、玄関のドアを潜り抜ける。今日も両親は事務所で泊まり込みらしく、家の中は暗く静まりかえっていた。
「あの、尽」
 やっと音になった名前にほっとしながら、日輪はまだ振り向かない弟に言葉を向ける。
「気付いてくれてありがと。でも、ごめん。嫌な思いさせちゃったでしょ」
 怒った様子を肌で感じつつ、それを何でもないみたいに軽く笑った。黙って前を向いていた尽がそれに弾かれたみたいに振り向いてくる。
「違うだろ! 嫌な思いしたのって、ねえちゃんじゃん!それなのに何謝ってんだよ馬鹿姉!」
 ぶつけられた激しい感情に呆然とする。尽は日輪の顔を見てはっとしたように唇を結んだ。
「尽……」
呼び掛けに苦い表情で緩く頭を振ってから、押し出すみたいに吐露する。
「謝るのはオレのほうだから。もっとオレが気を付けてなきゃいけなかったんだ。……ごめん」
 掠れた声に胸が締め付けられた。酷く負い目に感じているのが伝わってきて、それが辛い。尽のせいではないのに。
「隙があった私のほうが良くないと思うんだけど、尽はそれじゃ納得出来ない?」
 聞くというより確認すると、やっぱり頷きが返された。日輪はそれに苦笑して言葉を続ける。
「じゃあ、その『ごめん』は受け入れる。でも、私の『ありがとう』もちゃんと受け取って。あの時、尽が居てくれてホントに良かったって思ってるんだからさ」
 真っ直ぐ睨み付けるみたいに見つめた先の弟が、泣き笑いに似た表情を見せた。それにびっくりした瞬間、引き寄せられて強く抱き締められる。
「ほんっと、ねえちゃんて馬鹿だ」
 いきなりの抱擁よりも、しみじみとした口調のそれにむかついた。反駁しようと開いた口はしかし、柔らかな何かで塞がれる。すぐ間近に尽の睫があって、それを何故と思うのと息苦しさを感じるのは同時だった。不意にされていることに気付く。血が、沸騰するかと思った。
「な……んで」
 力の緩んだ隙に腕から逃れる。他にどうしていいのか解らなくて呆然と目の前の弟を見上げた。前に一度見たあの切ない眼差しが日輪を見返してくる。
「ねえちゃんが好きだから。人のことばっかりでどうしようもなく馬鹿なとこも、素直じゃないとこも、優しいとこも全部も好きなんだよ。実の姉貴だって解ってるけど」
 それでも好きなんだと繰り返された。それは胸に甘い痛みをもたらす。
「本当はフリなんか一つもしてない。オレは噂を利用してただけだから。……ごめんな、最悪だろ」
 頭冷やしてくる、そう言い置いて尽は玄関から飛び出して外へと消える。取り残された日輪はずるずるとその場にへたり込んだ。浴衣が汚れるということすら考えられない。
「尽が好きなのは……」
 その先に続く言葉は声にならなかった。


≡4≡

瞼を持ち上げると薄暗いリビングが映る。何故自分の部屋でなく、こんなところで寝ていたのだろうとぼんやりと思って、思い出したものに日輪は顔を歪めた。
夕べ、尽が帰ってこなかったからだ。
とにかく話を。あまり働かない頭で何とかそれだけを思い、日輪は着替えて弟を待っていた。だが、いくら待っても帰ってこなくて時間だけが無為に過ぎていくばかりだった。心配になって、堪えきれずに携帯に電話してみても繋がらない。不安は怒りとごちゃ混ぜになって、こうなったら意地でも捕まえて向かい合って話をしてやると決意していた。それが明け方頃。そこから記憶に空白が出来て、今現在に続いている。少しの間、眠ってしまっていたようだ。はっきりし始めた意識でそう思う。
「まだ帰ってないのかな」
 溜息と一緒に呟いて、日輪はのろのろとソファから身体を起こした。その拍子に掛けられていたらしいタオルケットがずり落ちる。
「……あ」
 風邪ひくから。適当な場所で寝ていると昔からそう言って弟は身体を冷やさないようにいつも何かを掛けてくれていた。呆れたように、でも仕方なさげに笑う姿が目に見えるようだ。
「馬鹿尽」
日輪はそれを拾って抱き締めると、ソファから飛び降りて二階へと駆ける。


 ノックなしにドアを開け放った日輪は、喉元まできていた文句が霧散したのを感じた。怒りが、途方に暮れたような気持ちに変わる。がっくりと肩を落として、そのまま部屋へと足を踏み入れた。
「──馬鹿なのはどっちよ」
 言って、ベッドの上に倒れ込んだみたいにして眠る弟の顔を見下ろす。いつもは片付いている床にはビールの空き缶が散乱し、枕元には両親秘蔵の日本酒まで置いてあった。眠れなかったからか、何も考えたくなかったからか、それとも両方か解らないけれど、足掻いた跡が切ない。日輪は持っていたタオルケットを広げて、そっと尽にかぶせた。
「勝手なこと言って、勝手なことして、勝手に決めつけて」
 そこまで口にして、一度噤む。そして、すとんとその場にしゃがみ込んだ。膝を抱える。
「ずるいよ、尽。私だって──」
 する、と零れ落ちそうになった言葉を知り、日輪は息を詰めた。
私だって好きなんだから。
浮かんだ言葉に愕然とする。でも、仕草一つで振り回されるのも、意識し過ぎで素直になれないのも、恋人でないことに胸が痛んだのも、原因がそれだとしたら全て辻褄があってしまった。どうしようもなくて、泣きたくなる。間違ったことだと解っているのに、否定出来るものが見付からない。
「……続きは?」
 低い問い掛けの声に身体が強ばった。顔を上げないままに言葉を絞り出す。
「続きなんかない」
 寒くなんかないのに息が震えた。駄目だと思えば思うほど、自覚してしまう。尽が──好きだ。
「寝たふりしてるなんて卑怯だよ」
「ごめん」
 柔らかく髪の毛に触れられるのを感じる。その心地よさに酔いそうで、日輪は抗うように唇を一度噛んだ。
「昨日のこと、なんだけど」
 ぎこちなくそう切り出して、続ける。
「なかったことには出来ないけど、なかったふりをしたほうがいいと思う」
 姉としての最良の選択かは解らないけれど、色々考えるとこれ以外の答えは口に出来なかった。気持ちがどうであれ、姉弟であることは一生変わらないのだから。
「それで今すぐは無理でも、尽は他の女の子を好きになったほうがいい。気持ちは嬉しいし、最悪なんかじゃないけど。そのほうが幸せになれる」
 自分にも言い聞かせるようにゆっくりと紡いだ。言葉だけで胸が痛いのも、きっと時が経てば少しはマシになるだろう。
「本気で言ってるの、ねえちゃん」
 抑揚のない声に頷いてみせると、笑みの気配をすぐ側で感じた。
「嘘つき」
「嘘じゃない……っ」
「オレの顔、見れない癖に何言ってるんだか。信じさせたいなら、顔上げてみろよ」
 挑発するような言葉に覚悟を決める。ここで拒むのは認めるのと同じだ。日輪は尽の前に表情を晒す。だが。
「ほら、やっぱり嘘じゃん」
 濡れた頬をそっと指先が撫でていった。どっちにしろ結果を変えることは出来ない。見破られるのは解っていた。
「オレは充分、幸せなんだけど。それじゃ駄目?」
 覗き込まれて、間近な距離で目が細められる。頷くことも首を振ることも出来ずにいると、唇が重ねられた。二度目のそれは、触れるよりもずっと深い。どうしようとかどうしたらいいとか、考えなければいけない先のこととかが全部真っ白になった。ただ、尽を望んでしまう。
「──なあ、ねえちゃん。さっきの続き、当ててやろうか?」
 悪戯っぽい口調とは裏腹な真っ直ぐな眼差しが射抜いてきた。日輪は緩く頭を振って、その言葉を自分でそっと口にする。


≡5≡

「そっか。やっぱりそうなったか」
 話が終わると奈津実はあっさりとそう言って肩を竦めただけだった。違う反応を予想していた日輪はそれに鼻白んで、彼女をまじまじと見つめる。
「ええと、反対とかしないの?」
「するわけないじゃん。だって、アタシ、最初っから尽の気持ち知ってて告白けしかけてたでしょ。つまり、そういうことだから」
「……よく解らないけど、応援してたってことで合ってる?」
 テーブルに組んだ両手を置いて、至極当然というように奈津実は頷いた。
「そりゃね、問題だらけで本当は良くないってことも解ってる。友達なら止めるべきかも知れないって思うよ。でも、いけないとか駄目とかはアンタ達のほうがアタシよりも強く思ってるでしょ。だからそれは言えない。──あとさ、ずっとアンタだけを見てた尽の目を知ってるんだもん」
 休憩時間だからと外して置いておいた名札を見るみたいに彼女は視線を落とす。
「それをずっと羨ましいと思ってたから。誰かにあんな風に想われたら幸せだろうなって。あはは、アタシらしくないか」
 誤魔化すみたいに笑ってから、とにかく、と言葉をまとめた。
「反対は無し! アタシはアンタの味方だからね! 今まで以上に奈津実ネェさんを頼ってくれてオッケーだから」
 衒いなく告げられたそれに鼻の奥がつんとする。ありがとうと泣きたいぐらい嬉しい気持ちのままに声にすると、奈津実は柔らかい笑みを浮かべた。
「尽がひどいことしたら言ってよね。アタシが思いっきり殴ってあげる──って、そういえば今日はその尽はどうしたわけ?」
 ウイニングバーガーの店内であるこの場所も見るからに学生らしい人達が各々で涼んでいる。夏休みはまだ終わっていないのだ。
「今日は登校日だから。あとで、ここに寄るって」
 疑問に応えつつ苦笑すると、彼女は成る程と頷く。そして少しの間考えるそぶりを見せた。
「なっちん?」
 首を傾げた日輪に奈津実はどこからともなく取り出した数枚の写真を突きつける。
「これ、この間撮ったやつなんだけど、尽に見せたらうるさそうだから内緒でアンタにあげとくね」
 明らかに面白がってる様子の彼女を不思議に思いながら、改めてそれに目を遣った。並んだ二人が収められているだけで別段おかしい所はないように思える。それが顔に出たのだろう、奈津実がとん、と指差して指摘してきた。
「まずその一、尽の顔。すんごい甘ったるいでしょ。その二、尽の視線。ずっとアンタばっかり見てるの解る? こんだけあからさまな態度じゃバレバレだと思わない? 誰が見ても一発でアンタが好きだって解るよね」
 言われて見れば、そうかも知れない。日輪は顔が熱くなるのを感じた。
「でも私はずっと解らなかったんだけど……」
 呻くように言うと、背後から声がする。
「それは日輪さんが鈍いからです」
「うわっ」
「ちょっと。どこから沸いたのよ、タマぷー弟。大人の女の秘密の話に首を突っ込むなんて、まだまだなんじゃない?」
「それは失礼。今度から大人の女の人が居る時は気を付けます」
 奈津実と玉緒は笑顔のまま、しばし牽制しあっていた。棘の潜む会話は肝を冷やさせる。
「た、玉緒くん、尽は?」
 空気を変えようと咄嗟に聞くと、彼はカウンターのほうに目を向けた。
「注文を頼んだだけだから、もう来ますよ。その写真は使えますね」
 返事とは全く繋がらない言葉を呟いた玉緒に日輪はぎくりとする。彼の言葉は全部洒落にならないと最近やっと悟ってきたのだ。
「だ、駄目だよ、この写真は! 私が貰ったんだもん」
「別に悪いようには使うつもりはないですよ。ちょっと何かを頼む時に役立てたいって思っただけなんです。それでも駄目ですか?」
 少し困ったみたいに笑う玉緒に奈津実は呆れたように息を吐く。
「アンタ、それ脅しに使うって言ってるようなもんだよ?」
「脅しだなんて心外ですね」
「……ええと、何かすんごい嫌な予感するけど、一応聞く。何の話だ?」
 トレーを片手にいつの間か側に来ていた尽が、顔を引きつらせて玉緒を見下ろした。
「尽を便利に使う方法について、討論を少々」
 屈託なく笑って告げる玉緒を心底強者だと思いながら、この隙にこっそり写真をしまおうとする。だが、目敏い尽は気付いていたようで、日輪の手を素早く押さえていた。
「……これは、奈津実さんの仕業?」
「アタシは色々考慮したんだけどね。まあ、タマぷー弟に見付かっちゃったのは不慮の事故だと思って諦めてよ」
 投げやりな返答に尽は長く息を吐き出す。そして崩れ落ちるみたいに日輪の隣の椅子に腰を下ろした。
「やっと噂も落ち着いてきたってのに。頼むから静かに過ごさせてくれよ……っ」
「人生にはスパイスが必要ってのが僕の持論だからね」
「そんなスパイスいらないから! ったく、ただ単に七十五日保たなかったのが面白くないんだろ、お前は」
 尽の言葉はすっぱり無視して、玉緒はトレーからシェイクを取る。よく解らない友情関係だ。日輪が言葉を失ってると尽は気を取り直したみたいに、咳払いをする。
「てなわけで、作戦は成功だから。約束通り一つだけ何でもねえちゃんの頼み聞くよ。何かあったら言って」
 写真よりも実物のほうが甘ったるい。そんなことを思ったら急に照れくさくなった。
「あ、えっと、いいよ。別にそんなの」
 熱くなった頬を隠すように尽から顔を逸らすと、奈津実が解ってるみたいにくすくすと笑う。それを恨めしげに目だけで睨んだ。
「遠慮すんなって。約束は約束、だろ?」
 尽はそれだけ言って、日輪の言葉を待つみたいに黙って手を握る。見えないけれど、視線もずっと向いているような気がした。頬だけでなく耳まで熱い。
「……じゃあ、駅の反対側に出来たデザートビュッフェの店に行きたい」
 考えた末の答えを口にしつつ、視線をやっと弟に戻した。少しびっくりしたみたいな表情がある。
「もしかして、駄目?」
「や、駄目じゃないけど。そんなんでいいの?」
「? うん」
 意味が解らず、ただ頷いた。尽は喉の奥で楽しそうに笑う。
「ねえちゃんは単純でいいな」
 聞いたことのある言葉にむっとしてると奈津実の横に座った玉緒がうっとりと独りごちた。
「デザートビュッフェか。いい響きだね」
「先に言っておくけど、オレはお前と行くつもりなんてないからな、玉緒」
「ケチくさいな、尽は。一人分ぐらい増えたって大して変わらないと思うよ」
「あのな……っ。今度こそ正真正銘、フリじゃない本物のデートなんだよ。邪魔されたくないっての解れよ頼むから」
 唸るみたいにして押し出された恥ずかしいセリフで顔が熱くなる。これ以上、意識させないで欲しいと思う姉の心を弟は解っていないようだ。こっそり嘆息すると奈津実が楽しげに笑った。
「アンタの今の顔、撮れないのは悔しいな」
「こんなのは撮られたくないよ!」
 指で作られたフレームから慌てて逃げるように、日輪は窓の外に顔を向ける。

暑いこの夏を、きっとずっと忘れない。