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眼鏡越しの空


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 本状一枚につき、二名様まで有効。
 太字で強調するように印刷されたその一文に溜息を吐いて、有沢は招待券から視線を外した。予想では当選なんて絶対しないと思っていたそれは、観たかった映画の試写会で、喜びこそすれ気鬱になる必要など本当はない筈のものだった。だが、彼女は気付いてしまったそれを無視することが出来なくて、券が届いてから今までずっと悩んでいる。
 それとは、この映画は『彼』も好きそうだということだった。
「突然誘うのはやっぱり変よね」
 呟いた言葉の後に再度溜息が重なる。そんな勇気があったらこんな所で悩んではいないのだ。彼女にとって、その行為は複素関数論の問題を解くより難しいことだと位置づけされている。情けないとは思うが、長年の片思いは余計に臆病さを増長させていた。
「志穂さん、お待たせ。カフェオレで良かったんだよね?」
 不意に呼ばれて我に返る。慌ててそれを抱えていた本の間に隠そうとしたが遅かった。日輪がカフェオレのパックとイチゴオレのパックを手にすとんとベンチの隣に腰を下ろしてくる。そして、不思議そうな顔でそれと有沢を交互に見た。
「試写会?」
「え、ええ」
 動揺を隠しきれないままに頷くと、目の前の彼女が拗ねたように唇を尖らせた。
「そんな隠そうとしなくたっていいのに。いくら私でもちょうだいとか言わないってば」
「ごめん。そういうつもりじゃ……」
 言い淀んだ有沢を日輪はじっと見つめてくる。真っ直ぐなその視線に耐えられなくなって、彼女は諦めたように言葉を継いだ。
「ただ、その。あなたは気を回しそうだから」
「あー、うん、そっか。そうだね。そうかも」
 しばらく唸っていた日輪だったが納得するように頷くと軽く笑ってカフェオレを二人の間へと置く。それに礼を言って受け取ってから、彼女に招待券を差し出した。
「良かったら、尽君と行って?」
「それは駄目です。志穂さんが行ったほうがいいって絶対」
 そこまで言ってから日輪は声を潜めて、それにと続けてくる。
「二人だと近場の映画館には行きづらいんだ。気にしすぎだとは思うんだけどね」
 イチゴオレのパックにストローを差しながら友人は苦笑とも自嘲とも見える笑顔を浮かべた。有沢は掛ける言葉が見付からず券をしまって、そう、とだけ応える。確かに気にしすぎであるように思えたが、用心するに越したことはないのかも知れない。
彼女の恋人は実の弟なのだから。
 何とはなしに目を上げると夏が始まったばかりの眩しい青いが映る。そういえば、彼女たちが倖せそうに寄り添っているのを初めて見たのもこんな空の色の時だった気がした。


日輪の様子がおかしいと気付いたのは、一流に入って少し経ってからだったように思う。ブラコンだと揶揄されても仕方ないぐらいに彼女の話の中には何らかの形で弟の名前が出てきていたのだが、ある時を境にふつりとなくなったのである。それに加え、ふとした拍子に思い詰めた顔をしたり、上の空であることも増えていた。元気そうに振る舞ってはいたけれど、それは本当の元気ではなくて、全然彼女らしくないおかしい状態だとしか言えなかった。
普通ならば、弟と喧嘩でもしたのだろうと思うだけで済むのだろう。だけど、有沢はどうしてもそうは思えなかった。正確にいつだったかは忘れてしまったけれど、尽に会った時にどうしてだか気付いてしまったからである。彼が姉である日輪へと向ける眼差しは弟のものではないと。
ただひたすらに好きだとその目は言っていた──。
避けているとしか見えないような様子から、彼女自身も尽のその想いに気付いた可能性が高いと有沢は思っていたのだか、後日何事もなかったように大学にひょっこりと顔を出した尽を見て、それが思い違いだと知る。日輪の反応から、気付いたのは彼の想いでなく彼女自身の想いだったと解ってしまった。弟であっても、彼女は尽を選んでいる。
 友人だからこそ簡単に踏み込んではいけない気がして静観を決めた有沢だったが、落ち込んでいるのに表面上ではいつも通りを装って笑う彼女と現れた介入者にどうしても放っておけなくなった。禁忌だと解っていても、背中を押してしまったのである。
そうして。色々なことが重なったこともあって、彼女と彼は想いをようやく通じ合わせた。だが、今でもそれで良かったのだろうかと思うことがある。日輪は「志穂さんが居てくれて良かった」などと言ってくれるけれど、人目を忍ぶ二人を思うとそれは余計に強まった。


「そういうわけだから、これは志穂さんが行くべきだよ。誘うにしろ誘わないにしろ。って、ねえ、聞いてる?」
「え? ええ」
 目の前でひらひらと彼女の手が揺れて、慌てて有沢は思考を中断させる。空から彼女へと視線を戻すと隣で日輪が首を傾げていた。そこにあるのはどうかしたのと言いたげな表情である。
「何でもないわ」
きっぱりと言って、それを強めるように頭を振った。
後悔を問うことは出来ないし、したくなかった。口にしたら有沢自身のそれすらもきっと見抜かれてしまうだろう。他のことはてんで鈍いのに、そういう所だけ彼女は鋭いのだから。
 納得してないみたいに見つめてくる日輪に内心だけで苦笑して、有沢は代わりのように気付いたことを音にした。
「そんなことより。今日、顔色悪いんじゃない?」
「そ、そう? 気のせいだよ、きっと」
 ぎくりとしたのが伝わってくる。その違和感に今度は有沢のほうが彼女をしげしげと見つめた。
「ええと、その、病気ってわけじゃないし、動けないほど痛いってわけでもないから大丈夫のはず……って、あー、や、じゃなくて! 寝不足だから、もしかしたらそう見えるのかも」
 何故か顔を赤らめてしどろもどろに答えてくる彼女に眉を寄せた。どうにも変である。
「痛みがあるのに病気じゃないって、怪我でもしたの?」
「そ、そうじゃなくて! ほんとに平気だから! 気にしないで!」
 湯気が立ちそうなぐらいに赤面した日輪は、見ているほうが具合が悪くなりそうなぐらいに勢いよく頭を振った。これは余程聞かれたくないことなのだろう。気にはなったが、有沢は話題を変えようと間を取った。カフェオレに口をつけると、その空いたタイミングに合わせたみたいに微かに振動音が響く。
「東雲さん」
「な、なに?」
「携帯、鳴ってるみたいよ」
 指摘されて初めて気付いたみたいに日輪は慌てて鞄から携帯電話を取り出した。メールかと思ったが違ったようで、彼女は有沢に小さく謝ってから手のひら大の機械を顔の横に当てる。
「もしもし、どうしたの尽」
 どうやら通話相手は弟だったようだ。出来るだけ内容を聞かないように、意識を反らす。
「……平気だよ。そんなに心配しなくて。もう今日は講義ないし、後は帰るだけだから」
 耳に入ってくる柔らかな声にちらりと視線だけを向けると、まだ仄かに赤らんだ彼女の横顔が映った。嬉しさが伝わってくるような表情は今まで見たことがないぐらいに綺麗で。それをさせているのが尽なら、間違ったことでも良かったのかも知れない。有沢はそう思えて口元だけで笑む。
「え? い、いいよ! わざわざ来なくて! ちょっと尽!?」
 邪魔をしないように読み掛けの本を開こうとした所で、声音が焦ったようなものに変わった。そしてそこで、意外に早く通話が終わる。日輪が長く息を吐き出して向き直ってきた。
「──何か、迎えに来てくれるみたい」
「良かったじゃない」
 思ったままを口に出すと、彼女は眉をひそめた。
「過保護なんだよ尽は……」
「それは昔からでしょ?」
 ただの姉弟であった頃から変わっていないと指摘する。それは彼女も解っているだろうに。そこまで考えて、はたと気付いた。
 嬉しくないわけがないのだ。
日輪の性格上、尽関係でストレートに喜ぶということが滅多にないだけなのである。有沢は思い当たったそれに、堪えきれず吹き出す。
「な、なんで笑うの!?」
「だって、あなた、可愛いんだもの」
「何ソレ」
 切れ切れの言葉にふくれっ面になった日輪が更におかしくて、有沢は暫くの間、笑みを消すことが出来なかった。




"ⅱ '


今日までに返さないといけない本があったから。そう言い置いて慌てて図書館へと向かった日輪の背がすっかり見えなくなった。有沢は地平線のほうへと向けていたその視線を手元に戻して、そっと招待券をまた取り出す。
何度見てもそれは同じで、どうしても踏ん切りがつかなかった。こんな気持ちではとても誘えそうもない。
 少し離れた場所に立った時計台で3コマ目が始まったことをちらりと確認してから、嘆息と共に彼女は招待券を折り畳んだ。見送る方向に傾いてきている。──と。
「試写会?」
「!」
 突然降ってきた声に、思わずそれを握りしめてしまった。くしゃ、と軽い音がたって、確認しなくても手のひらの中でしわしわになったのが解った。なけなしの勇気もそれと一緒に縮んでしまい、ただ呆然とその場で硬直する。
「えーと。もしかしなくても、声掛けるタイミングが悪かった、みたいな……」
 背後から覗き込んできたのは尽で、表情も声もばつの悪さが滲んでいた。
「すみません」
「う、ううん、いいの。行かないつもりだったから」
 素直な謝罪に呪縛が解けた。慌てて笑って見せながら、有沢はそれをポケットにしまう。
「行かないって、どうして? 守村、誘うつもりだったんじゃないんですか?」
 見透かしたように言って、背もたれの部分に反対側から腰を下ろしてくる。小学生の頃は有沢よりも二十センチは背が低かった彼も、今では軽く彼女を越していて。そのすらりとした身体をはば学の制服で包んで、肩越しに振り向くようにして日輪と同じ色をした目を真っ直ぐに向けてきた。
「……また次の機会に頑張るわ」
 一瞬迷ってからそう答えると、ごく淡く尽が笑う。
「次が来るかどうかなんて解らないですよ? チャンスは無限にあるとでも? 動ける時に動かないと、ずっと変わらないし変われない」
 重みのある言葉に息を飲むとそれに気付いたのだろう、経験談と悪戯っぽく告げてくる。
「先を望むなら、当たって砕けろって思うことが結構大事なんじゃないかな、うん」
 少し戯けたように言葉を締めると尽は口調を変えて軽く訊ねてきた。
「話全然違くて悪いんですが、オレ、前から聞きたいことがあったんですよね。今、いいですか?」
「私はいいけど」
 言外に日輪のことを言うと、尽は肩をすくめる。すぐに済むということなのだろう。黙って先を促すと、徐に彼が口を開いた。
「オレがねえちゃんのことを好きだって、いつから知ってたんです?」
「言ったことないのに気付いてたのね、尽君は」
「そりゃまあ、誰かと違って鈍くはないつもりですから」
 浮かぶ苦笑に悪いと思ってもつい笑ってしまう。確かにと納得してしまうぐらい日輪の鈍さは半端ない。
「あなたがまだ小学生の頃。」
「うっわ」
 それだけを言って、尽は項垂れるように肩を落とした。予想外だったらしい。
「必死に隠してたみたいだけど、何となくね。普段はそういうことに全然鋭くないから自分でも不思議だったんだけど」
「それは多分、似たような、っていうか近い部分があったからじゃないかなと思ったりするんですが」
 力無く返ってきた言葉に瞬いた。確かにそう言えなくもないかも知れない。
「あー、と。今聞いたの、ねえちゃんには内緒にしといて下さい。カッコ悪いんで」
「それは構わないけど」
 了承を伝えて、ふ、とさっきのことを思い出した。様子の変さも彼なら何か知っているかも知れない。
「東雲さん、何だか具合が悪そうだったんだけど、尽君はどうしてだか知ってる?」
「知ってるも何も、原因はオレみたいなものだから」
 返された頷きにやっぱりと思った。だが、困ったような、それでいて嬉しそうな微妙な表情と内容に、その先を訊ねていいものか躊躇する。思案しながら見つめていると、彼はくすりと笑って独りごちるみたいに低く呟いた。
「初めてなのに朝まで無茶させたのがまずかったよな、やっぱり」
「え?」
「っと、オレそろそろ行かなきゃ。どこに居るか解ります?」
 思わず聞き返した有沢だったが、それへの返事はない。訳がわからないまま、とりあえず図書館であることを教えると短い礼は返ってきた。それでもやっぱり、先のことには触れてこない。
「……答える気はないってことね」
 それは独白だったが、尽は同意するように目を細めた。
「この間、例の雑誌を音読してくれたお返しです。あれはオレ的にすげーキツかったんで。──ま、すぐ解るとは思いますが、しばらくはヤキモキして下さい。解っても余計楽しくないでしょうけどね」
 それじゃ、と軽く敬礼するみたいに片手を揚げ不敵に笑う。そしてそのまま日輪がいるであろう方角に足早に向かっていってしまった。その場に取り残された有沢はしばし呆然とし、それをやがて苦笑に変える。
「大人っぽいんだか子供っぽいんだか解らないわね」
 声に出して呟いて、完全に温くなってしまったカフェオレを口に含んだ。それを甘いと脳で感じると、その拍子に一つの答えが導き出される。確かにそれは楽しいと思うものでは全然なかった。
 襲ってきた気恥ずかしさに有沢は一人どうしようもなく赤面する。

*

 落ち着きを取り戻した有沢がそれを見付けたのは偶然だった。そろそろ家に帰ろうと空のパックをゴミ箱に捨てに立った時、ちらと光った何かを目の端で捉えたのである。
 まだ翳りを見せない日の光に反射して所在を示したそれは小さな花の形をしたペリドットのピアスで、有沢には見覚えの有りすぎるものであった。ついこの間、一緒に買い物へ行った時に、散々迷って日輪が買ったものである。
「相変わらず、そそっかしいんだから」
 苦笑と共にベンチの脇に落ちていたそれを拾って、手のひらの上で転がした。可愛らしい薄緑の花を彼女はひどく気に入っていたから、失くしたことに気付いたら大騒ぎをしそうである。安易に想像が付くそれに一瞬だけ考えて、有沢は帰りがてら図書館に寄っていくことを決めた。日輪の姿も尽の姿もあれから見かけていないから、まだきっと館内にいる筈である。ついでに何か調べ物でもしているのかも知れない。
「しょうがないものね」
 口に出して呟いたそれは楽しげな響きを含んでいて、有沢は小さくそんな自分を笑った。


"ⅲ '


煉瓦造り三階建ての図書館は一流キャンパスのやや奥まった場所にある。イメージ的にはば学の教会に近く、はば学卒業生には何となく落ち着く場所の一つになることが多い。有沢も勿論その一人で、用がなくても通うことは多かった。
館内に進み入ると、中途な時間なせいか利用者は疎らだった。入り口近くの閲覧室も、PCが利用できる検索室も空いている。有沢はそれらを一瞥しながら、カウンターの前を通って中央の階段へと向かった。そしてそのまま、地下書庫を目指して段を下る。日輪は見掛けに寄らず専門的な書物を好む質だから、一般図書を揃えている上のほうの階ではなく、地下を選んでいる筈なのである。
地下に降りた有沢は法律関係の棚の間を進みながら、きょろきょろと辺りを探った。多分、専攻の工学系の棚の辺りにいるだろうが、彼女の思考には計り知れない部分があるから少し厄介だった。今までも意外な所に潜り込んでいたことが何度かあって、探すとなると非常に苦労するのである。思い出したそれに微かに笑うと、少し離れた所に人の気配を感じた。視線を棚の隙間から投げると、二人の姿が見える。
 いつもより早めに見付かって安堵する。どうやら予想通りに調べ物も済ましているようだ。本を取りだしては中を確認する日輪と、荷物持ちをしている尽がいる。声を抑えているらしい会話は流石に聞こえてはこないが、どうも尽が不満げだ。有沢でさえ気付くそれに彼女が気付かないわけがなく、仕方がないみたいだったが作業を中断させたようである。理由を問うみたいに向き直ってた。
 いつ声を掛けようと間を計っていると、今まで不機嫌だった尽がニヤリと笑ったのが目に映る。だが、日輪はそれに気付いていないようだ。無防備に弟を覗き込んでいく。もしかしてと有沢がちらりと思った瞬間、彼女は彼の腕に囚われていた。やっぱり策略だったらしい。日輪もようやくそれに気付いたようだったが、今更だった。棚に背中を押し付けられて、強引に唇を奪われる。
「ば、馬鹿! こんなとこで……っ」
 藻掻いて彼から少しだけ逃れた日輪が感情的な高い声を上げた。が、すぐに口を押さえ込まれて、それは途中からまた届かなくなる。呆れたように肩をすくめた彼は何事かを耳元で囁いて、そして笑う。それが怒っていた彼女の顔を唖然としたものに変え、更に困ったような笑顔にさせた。解放された口が、馬鹿尽と動くのを確かに捉える。
先を許すように、委ねるように日輪は目を閉じ、尽はそれまでの悪戯っぽさを消した。愛しむようにそっと一度瞼にキスを落とす。
くすぐったがって薄目を開けた彼女と、それに気付いた彼の視線が交わった。二人同時に吹き出し、小さく笑う。
そして今度はゆっくりと唇を重ねた──。
そこまで見てしまってから、はっと有沢は我に返る。こうやって隠れて見ているだけではただの覗き見と同じだ。だが、この雰囲気の中に割って入っていくことは到底出来ない。それは野暮過ぎる。ピアスのことは後でメールで知らせれば大丈夫と思うことにした。
気付かれないようにこの場から去るという選択肢を迷うことなく選んで、有沢は来た道を必死に音を立てず引き返す。

   *

無事退館を果たした彼女は、そこで力尽きたみたいにしゃがみ込む。初めて見た友人のキスシーンに頭がぐらぐらした。街中で見掛けても、それほど気にしたことはなかったが、やっぱり赤の他人と友人では違うということなのだろう。居たたまれなさとか気まずさとか罪悪感とかでいっぱいだ。これでは次に会った時、普通に接することも難しいかも知れない。それは困る。
抱えた膝に額を寄せた。どうしようもなさに溜息は抑えきれない。だけど、それでも不思議と嫌悪感はなかった。いやらしさも感じていない。ひどく自然で、そうすることが当たり前のように見えた。世間的に言えば、姉弟だから背徳的なのだろうが、二人を見ていると何がいけないのか解らなくなる。感情を捨ててまで子孫を残すことがそんなに大事なのだろうかと、どうしても思ってしまう。
偏った考えであることは自覚していた。だが仕方がないのである。日輪は友人なのだから。
「有沢さん? どうかしたんですか?」
 止めどないそんな思惟の中から不意に呼び戻された有沢は、その声に一瞬だけ遅れて全身を緊張させた。聞き間違えることのないそれに恐る恐る顔を上げると、そこにきょとんとした表情を浮かべた彼の姿がやはりあった。
「さく、守村くん……!」
 どうしようもなく鼓動が早くなっていくのを感じる。心の準備は出来ている筈も無くて、名前を呼んだはいいものの、次の言葉が出てこない。
「具合でも悪いんですか?」
 心配げな表情で見つめられて、嬉しいのにどうしたらいいのか余計解らなくなった。
「有沢さん?」
「あ、あの、大丈夫、です」
 震える声でなんとかそれだけ返すと慌てて立ち上がる。守村はしかし遠慮がちに言葉を重ねてきた。
「けど、顔が赤いですし。もしかして熱があるんじゃないですか?」
 ふわりと額に触れられて、頭の中が真っ白になる。都合のいい夢を見ているのではないだろうか。そうぼんやりと思った。だけと。
「熱は……ないみたいですね」
 考えながら呟いた彼が、はっとしたように額から手を退けたことでようやく現実だったと知る。
「す、すみません、つい」
「い、いえ。いいの。あの、気にしてくれて、ありがとう」
 ぎこちなかったが、それでもそう伝えられたことが嬉しかった。込み上げてくるその気持ちはひどく幸福で目眩がしそうである。
「有沢さんも図書館に用事なんですか?」
 穏やかな笑顔に戻った彼が、背後の建物に目を向けて聞いてくる。釣られたように微笑んだ有沢は私は、と言い掛けてはっとした。
「守村くんはもしかして地下書庫に……?」
「はい。行くつもりですが」
 あっさりと頷かれて、血の気が引いていくのが解る。あの二人に面識のある守村が今の状況を見たら、どういう関係かは知られてしまう筈だ。それはきっと日輪を追い詰める──。
「え、ええと。守村くんが良かったらでいいんだけど、お茶に少し付き合って貰えない、かしら。そ、その、私、とても時間が空いちゃって」
 考えがまとまるより早く、有沢は咄嗟にそう口にしていた。非常事態とは言え、ひどくハードルの高かった彼を誘うということが出来て、内心だけで驚く。
「僕でいいんですか?」
「は、はい。守村くんがいいんです」
 目を見開いた彼が、やがて溶けたように微笑んだ。
「有沢さんがいいなら、喜んで。実は僕も時間が空いちゃって困ってたんです。だから、図書館で時間を潰そうかなって思ってたんですよ」
「そうなの。それなら良かった……」
 心底ほっとして呟くと、目を細めたまま彼が訊ねてくる。
「どこに行きましょうか?」
「え、ええと、じゃあ、カフェテラス……」
「いいですね。確か、今日から新しいメニューに変わったんでしたっけ」
「ええ。そう聞いてたから、気になってたの」
 それでは行きましょうか、と笑顔が向けられて、それだけで舞い上がりそうだった。並んで歩くことも、自然に会話が出来ることも嬉しい。

先を望むなら──。

ついさっきの尽の言葉が不意に蘇った。
もう少しこんな風に彼へと近付く為には、当たって砕けるぐらいの覚悟がないと本当に駄目なのだと頭ではない所で理解する。変われるなら、変わりたい。ポケットの上から丸まった券をそっと押さえて、有沢は一度唇を引き結んだ。
そして。

「も、守村くん。今度の日曜日、空いてる?」

 日輪に送信するメールには拾ったピアスのことだけでなく、試写会に二人で行くことの報告も記すことになる。