当たり前のメリークリスマス
夕方。急速に姿を消す日溜まりに、今までそれで温んでいた空気が持ち堪えられずに冷気を纏い始める。辺りは夜を受け入れるようにトーンを落として、当たり前に静かに佇んでいた。
ガラス越しにそのしんしんと冷え込む様を一瞥した日輪は、瞬きの次にはまた今まで見ていたテレビへと視線を戻す。丁度始まったニュースでは、各地のイルミネーションを映し出して、その幻想的さを伝えるコメントを述べている。バックに流れる毎度お馴染みのクリスマスソングは耳に心地よいが、少しだけ寂しい気持ちにさせた。
「ねえちゃん、これとこれだったらどっちがいいと思う?」
声に驚いて振り向くと、いつの間にか背後を取った尽が手に持った二色のタイをひらひらさせる。その姿は正装に包まれていて、彼女は再度驚いて目を瞬かせた。
「何そのカッコ」
「コスプレにでも見えるわけ?」
あっさりと言葉を返してくる弟をソファに座ったまま半眼で睨む。
「違う!──あんた、天之橋さんのパーティ行かないんじゃなかったの?」
確か先日聞いた時は面倒臭いからいいと言っていた筈であった。それなのに、と不審がる日輪に尽は苦笑してみせる。
「周りがうるさくってね。参加しないわけには行かなくなっただけ」
「ふぅん」
彼女が曖昧に頷くと、ソファの背に反対側から腰を下ろして、尽はすっかり長くなった足を組んだ。
「ねえちゃんだって、パーティ行くしさ。オレ一人で家に居てもしょうがないじゃん?」
拗ねたような物言いに小さく笑って、揶揄するように言う。
「なにそれ。私が居ないと寂しいってこと?」
「うん。本当は行かないでって言いたいぐらいにね」
思ってもいなかった素直な返答に、彼女は言葉を失った。見つめてくる瞳はいつになく真面目な色を帯びていて、反らすことが出来なくなる。
「なんて、な。──間抜け面してるぜ、ねえちゃん?」
ふ、と光を和らげた尽はそのまま悪戯っぽく笑った。はっとそれで我に返った日輪は、決まり悪さに口を尖らせる。
「ほ、本気にして一瞬でも考え直した私が馬鹿だった!尽なんてもう知らないんだから!」
熱くなってる頬に気付いて、悟られたくない一心で慌てて顔を逸らす。何でも鵜呑みにしてしまう自分の単純さを呪いたくなっていると、降参したみたいに尽が哀れっぽい声をあげた。
「ごめんってば。オレが悪かったです。機嫌直してください、お姉さま」
不機嫌な眼差しだけを向けると、気付いて尽が困ったみたいに笑う。それだけで仕方がないという気持ちになるのはやはり甘いのだろうけれど、彼女は溜息を吐いて、弟が右手で持っていた方のタイをすっと指さした。
「……こっちの色の方が尽に似合う」
憮然としたその呟きに、目の前の尽が溶けたように嬉しそうに微笑む。
*
吐く息が白く濁る。ミルク色のそれは少しの間だけ瞬く星を視界から遮り、しかしすぐに消えた。空気が冷たく澄んでいるのを見える星と肌とで感じながら、日輪はコートの裾が翻らないぐらいのスピードで歩く。パーティの会場に行くには電車を使わないといけない為に、彼女は駅へと向かっているのだ。
駅に近付くにつれ、クリスマスの色が強まっていく。週末ではないのに、駅前通りは人が溢れ、何かを抑え込んでいるような少し落ち着かない雰囲気があった。他人事のように眺めてから、それに気付いて苦笑する。
「折角のクリスマスなのに」
口の中で呟いて、前に落ちてきたマフラーを背に払った。成り行きで行くことになってしまったパーティに、どうしても溜息ばかりが洩れる。
「ホントは自由参加だから行かないって言うつもりだったのにな」
ぼやくように独りごちて、彼女は視線を落とした。行くと思い込んでいた尽の前でそれを言い出せなかったのは、揶揄した言葉が自分をも指していたからである。
一人では寂しくて。でも、日輪の性格では素直になれる筈もなくて。こうしてとりあえずパーティへと向かっているのだが、それも虚しいだけだと止めどない嘆息に思う。
ちら、と駅の時計に目を遣って、重い足をついに止めた。この時間ならはばたき学園のクリスマスパーティは疾うに始まっているだろう。
流れるクリスマスソング。輝くイルミネーション。楽しそうな人々の顔。視線を巡らせる先に必ずあるそれらに一度目を閉じて、逡巡を断ち切るように踵を返す。
乗り気でないパーティに行くよりも、尽にお帰りを言う役目の方がずっといい。その方がどうしてだか胸が温かくなるのだから。
徐々に上がるスピードに彼女の足下でコートの裾が勢いよくはためいた。
*
途中で寄ったパン屋で買ったケーキの箱を持ち直して、日輪はそっとドアの鍵を開ける。
軋む音を響かせながら作った隙間に身体を滑り込ませると、暗い筈の玄関に明かりがあった。
珍しく両親が仕事場から戻ってきているのだろうかと思ったけれど、それはすぐに違うと知れる。
「…ねえちゃん?」
音に気付いたようにキッチン側のドアから顔を覗かしたのは尽だったのだ。
「なんで居るの」
呆然と呟くと、完全にドアを開けて姿を現した弟が正装のままで可笑しそうに笑う。
「そっちこそ。パーティどうしたんだよ?」
「別に。行かなかっただけ」
日輪のぶっきらぼうなその答えに尽は肩をすくめて、五メートルほどの距離をゆっくりと詰めた。そして、何気ない仕草で床の上から白い箱を拾う。どうやら気付かないうちに、取り落としていたらしい。
「これケーキだよな。中身、崩れてない?」
言われてはっとする。慌てて開けた先に、無惨な形になったそれがあった。
「折角奮発して大きいの買ったのに」
落胆する彼女に尽は仕方なさげに嘆息すると、箱の縁に付いたクリームを人差し指ですくう。
「ま、味は変わらないって」
それを舐めて一つ頷くと、同じ要領でもうひとすくいして口に入れた。気にするなという意味である事は解るが、何となく癪で彼女はふくれっ面になる。
「もう!一人で食べないでよ!」
八つ当たり気味のその言葉は尽に効かなくて、余計に笑われるばかりだった。悔しげに睨むが、それに返ってくるのは柔らかな眼差しだけである。
「──二人で食べる為に買ってきてくれたケーキ、だもんな?」
見透かすような視線に捕まった。耳が熱くて、顔が赤くなっていくのが解る。
「だ、だって、クリスマスだし。特別な日だからケーキの一個ぐらいって思って」
彼女の言い訳じみたしどろもどろな言葉に、尽はくすりと笑った。
「その特別な日はオレと一緒に過ごしたいんだ?」
「そういうわけじゃないもん」
「まあ、そういう事にしておいてもいいけどね」
この歳で弟離れ出来ていない気恥ずかしさに慌てて否定するけれど、それは軽くあしらわれてしまう。どうしてもこの弟には敵わない。
その居心地悪さを誤魔化すみたいにブーツを脱ぎにかかると、尽が極さり気なく呟いた。
「メリークリスマス」
びっくりして視線を上げた先には笑顔がある。
どうしてだか鼓動が早まるのを感じて、彼女は泣きたいような気持ちでそれに小さく頷いた。
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