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初花





傾いた日が植物の、そして建物の影を伸ばす。宙に広がった茜色のグラデーションも徐々にトーンを落として、着実に夜へと向かっている。
窓にもたれるように立った少年は、それらを肩越しに一瞥すると疲れたように息を吐き出した。
「だーかーら。オレがイイって言ってるんだからいいだろ、別に」
「絶対やだ。」
「ねえちゃん」
宥めるように呼ぶとベッドに横たわったままの少女は、憮然とした表情を浮かべる。
「付いててくれるっていう尽の気持ちは嬉しいけど、でも、折角のお祭りなんだよ? 友達とも約束してるんでしょ?私は寝てれば平気なんだからさ。行ってきなよ」
芯の強さを感じさせる瞳に見つめられて、尽は言葉を詰まらせる。ここまで言われてしまったら、どうしようもなかった。彼女の頑なさは嫌という程、知っているのだから。
「──わかった。じゃあ、ちゃんと大人しく寝てろよ? なるべく早く帰ってくるからさ」
優れない顔色をした姉を見下ろして、尽は溜息混じりに告げた。
「……私のほうがお姉ちゃんなのに、何であんたに子供扱いされなきゃいけないの」
拗ねたみたいに言う彼女の頭にぽん、と手を置いて尽はニヤリと笑う。
「だって、仕方ないだろ? オレのほうがしっかりしてるし」
「尽っ!」
「あはは、んじゃ、行って来まーす」
鋭い叱咤する声から逃げるようにして、尽は彼女の部屋から飛び出した。そして、そのままの勢いで階段を下りる。玄関脇の壁に掛かった姿見に映る表情は、ほんの数秒前まで笑顔であったのが嘘のように苦い。
「ったく、頑固なんだから。もう少しオレを頼れっての」
知らず、思ったことが口をついて出る。はっとそれに気付いた尽は、大きく頭を振って、唇を噛みしめた。スニーカーを突っかけてドアを引く。
広がっていく隙間から、夏を強く感じさせる生ぬるい風と共に祭囃子が入り込んで来る。明るい色の髪の毛が、一瞬遅れでそれにふわりと舞った。


*  *  *


「ホントごめん!」
ぱん、と顔の前で手を合わせて頭を下げた尽に、落胆の声が上がる。
「えー!?」
「ひどいよ尽くん! 約束してたのにっ」
「その用事って何とかならないの?」
「つまんない」
公園の入口で待ち合わせをしていた女の子達が口々に捲し立てると、尽は困ったみたいに笑ってみせた。
「この埋め合わせはちゃんとするからさ。今日はオレ抜きでみんなで楽しんでよ。折角、浴衣着てかわいーんだから」
悪戯っぽく片目をつぶると、女の子達は言葉を飲み込んだようである。満更でもなかったのだろう。どの顔にも仕方ないといってるみたいな苦笑があった。
「もう、調子いいんだから。──しょうがないから、今日はあたし達だけで遊ぶよ」
「玉緒くんは平気? 一緒に行ける?」
それまで黙って事の成り行きを見守っていた玉緒は、その声に緩く頭を振った。
「僕も帰るよ」
「そっか。じゃあ、またね」
ばいばいと手を振って離れていく彼女らを見送りながら、尽は玉緒にだけ聞こえるぐらいの声で囁く。
「おまえまで止める必要なかったのに」
「別に尽が行かないから僕もってわけじゃない。正直、面倒くさかったから助かったぐらいだ」
にこやかに手を振り返している玉緒は、表情を変えないまま静かに応えてくる。勿論、彼女らには聞こえてないだろう。
「面倒くさいっておまえなぁ……。いや、いい。言うだけ無駄だろうし」
疲れたみたいに息を吐き出してから、尽はジーンズのポケットに手を突っ込んだ。いかにも人畜無害っぽい顔をしているのにこの性格じゃサギだよな、と思わずにはいられない。
「そんなことより、用事って何?」
「んー……まあ、玉緒ならいっか」
視線を少しだけ彷徨わせてから、尽はこめかみの辺りを弄る。目の前の悪友ならば、事情を話しても問題はないだろう。
「ああ、そうか。そういえば、姉さんが言ってた。日輪さん、熱出したんだっけ。──もしかして、それ?」
思い出したみたいに呟く玉緒に、頷いてみせた。
「そゆこと。うちの親、滅多に帰って来ないからさ。オレが付いててやらないとな。まあ、ねえちゃんはいいって言ってたけど、何か落ち着かないし」
「ふぅん」
曖昧な返事をしながらまじまじと見つめてくる玉緒に、尽は居心地の悪さを覚える。何なんだと問い詰めようとしたが、彼の言葉のほうが早かった。
「すごく大事なんだね」
ぽつりと告げられたそれに面食らう。その通りではあるけれど、改めて言われると何だかとても照れくさい気がした。尽はふい、と顔を背ける。
「……二人っきりの姉弟なんだから、当たり前だろ」
「僕はそういう意味で言ったんじゃないんだけど」
苦笑した気配に視線を戻すと、そこで玉緒が肩をすくめた。
「分からないならいい」
「何だよソレ」
尽は眉をひそめたが、答える気が全然なさそうな玉緒の姿を見て息を吐き出す。まあいいかと思うことにした。
「おまえはすぐに帰るか?」
「いや、姉さんを見付けて合流しようかと思ってるけど」
それが何?と首を傾げる彼の腕を取ると、ニッと笑う。そして、そのまま夜店の群れに向かって駆けだした。
「ねえちゃんの土産買うから少し付き合えよ。おまえと二人でいるほうが年上ウケがいいからさ。おまけして貰える確率が高くなる!」
「ラムネ一本ぐらいは奢って貰うからね」
仕方なさげに呟く玉緒の声を背中で受けながら、わら微笑って喜んでくれるであろう姉の姿を思い描く。何故か嬉しい。よく解らない胸の熱さに、尽は少しだけ首を捻った。


*  *  *


音を立てないようにしてドアを開けると、姉の日輪がベッドの中で静かに眠っているのが目に入る。それに尽はほっと安心したみたいに息を吐いて、フローリングの上を数歩進んだ。抱えていた荷物を少し悩んでベッド脇の椅子に置くと、身動ぐ音がする。
「……つくし?」
「あ、ごめん。起こすつもりなかったんだけど。──熱、少しは下がったか?」
そっと額に手を伸ばして、触れた。
「うん。だいぶいいかな。……やっぱり早く帰ってきちゃったんだね」
困ったみたいに笑う日輪に、尽は肩をすくめてみせる。じんわりと伝わってくる体温はまだ少し高かった。
「なるべく早く帰って来るって言ったじゃん。病人は余計なコト気にすんなって」
軽めに指先で額を打つと、日輪は顰め面になって呻く。だけど、それはすぐに笑顔に戻った。
「ありがと」
少し照れたみたいな彼女に、尽も何だか照れくさくなる。ぶっきらぼうにドウイタシマシテと返しながら顔を逸らした。心臓が、落ち着かない。
「み、土産買ってきたんだけど食える? ええと、リンゴ飴とか綿菓子とか色々あるぞ」
焦ってつかえながら言って、それでも何とか袋を掲げてみせると、日輪が驚いたように目を瞬かせた。
「なんか、すごい量なんだけど……。お小遣い平気なの?」
「へへ。実は殆どサービスで貰っちゃったんだよな。ほら、オレって年上にもモテるからさ。いやー、こういう時は得だよなあ」
いつもの調子に戻れたことをこっそり安堵する。今さっきのは何だったんだと思いながらも、自分の言葉に得意げに胸を反らしてみせた。彼女の唖然とした表情が呆れたみたいなものへと変わる。
「素直に感謝したくなくなった」
「僻むなって。ねえちゃんも素材は悪くないんだからさ、もうちょっと努力すればマシにはなるよ、うん。──それよりほら、どれがいい?」
僻んでないもんと睨め付けながら、それでも日輪はリンゴ飴を指した。
ああやっぱりな。そんなことを思って尽は小さく笑う。好物だと聞いたことはなかったけれど、予想通りだったことに嬉しくなった。
「落として布団汚すなよ?」
「平気だってば」
ゆっくりと身体を起こした彼女が拗ねたように眉を潜める。尽はそれに肩をすくめるだけして、その手にリンゴ飴を握らせた。赤いリンゴは蛍光灯の下で宝石みたいに輝く。
いただきますと割り箸を挟むようにして律儀に手を合わせた日輪の顔は、いつの間にか笑顔で。傍らに腰を下ろした尽はひどく満ち足りた気持ちでそれを見つめた。




蝉の声があちこちから響いている。まるで降ってくるみたいなそれに、尽は少し顔を顰めてすぐ側にあった木を見上げた。目を凝らしたけれど、その姿は確認出来ない。
「どうしたの、尽くん。おいてかれちゃうよ?」
呼ばれてゆっくりと視線を向けると、隣を歩いていたクラスメイトが不思議そうな顔をして見つめていた。歩くペースがかなり落ちていたらしいことを離れた距離で知って、尽は慌てて足を速める。
「すごいセミの声だからさ、気になってつい。さすがに山の中は違うね」
肩をすくめてみせると、彼女は納得したみたいに頷いた。
「家の近所にはそんなにいないもんね。でも、わたしはセミって好きじゃない。怖いし。ね、近くに来たら追い払ってくれる?」
「勿論オッケー。任せといてよ、ユウコちゃん」
「ユウコちゃんだけなんてずるーい! あたしだって苦手なんだから!」
軽く請け負うと後ろに並んでいた別の少女が声を上げる。尽は苦笑してくるりと振り返った。
「はいはい。ユミちゃんもね」
満足げに頷く彼女を目に留めながら、荷物を詰め込んだリュックを背負い直す。額の汗を拭うついでに、こっそり嘆息した。むっとするような暑さのせいか、いつもより色々なことが鬱陶しく感じる。彼女達とのやり取りでさえ面倒くさい。
「……キャンプ場ってまだかよ」
ぼやくように小さく呟いて、目をすがめるようにして前方を見遣った。なだらかな登りの道は、木立の合間を縫うように まだしばらくは続いているようである。
「尽くーん、早くー」
遅れがちになった尽を、また別の少女が急かすように呼んだ。
「あー、エリちゃんごめん。先行ってて。オレ、玉緒に話あったんだー」
ひらひらと手をを振りながら、最後尾の辺りを親指で指す。それに気付いたみたいに顔を上げた玉緒の視線とぶつかり、誤魔化すみたいに笑ってみせた。ダシに使って悪いと思いながら。
「なんかイマイチ調子がでないっていうか、不調なんだよなぁ」
ぽつりと言葉が零れる。前日であった昨日も日輪に はしゃぎすぎだと笑われたぐらい、楽しみにしていたサマーキャンプなのに。少しおかしい、そう思った。
はぁ、と重く息を吐き、空を見上げる。葉と葉の間から覗くそれは、あの夏祭りの時に買ったラムネの瓶の色に似ているような気がして、何となく切ないような気持ちにさせられた。


*  *  *


「かまどの準備出来たぞー」
少し離れた場所からの声に、尽は視線だけを上げる。首にタオルを巻いて、いかにも暑そうにしている友人らの姿がうっすらと立ちのぼる煙りと共に見えた。どの顔も少し煤で汚れている。
「おー。サンキュー! こっちはもうちょいー」
ジャガイモの皮を剥く手は止めずに応じると、彼らは顔を見合わせてからパタパタと駆け寄ってきた。
「なんか手伝うかーって、うっわ東雲うめー!」
「うちの母さんより皮むき早っ!?」
「クラスの中で一番じゃねー?」
手元を覗いて口々に言う。
「おまえら大袈裟過ぎ。こんなんはただの慣れだって」
肩をすくめて、新しい芋を手に取った。
「こっちはいいから玉緒のほう手伝ってやったら? あいつ、包丁てんで駄目だからさ」
シシ、と歯を見せて笑うと、頷きが返ってくる。どの顔も夕飯作りの使命感に燃えていて少し可笑しかった。
あの後、開けた場所で昼食を取って。そして、また延々と歩いた。山の頂上にあるこのキャンプ場に着いたのはついさっき。夕方に少しだけ早い時間だった。
班ごとに割り振られたバンガローに荷物を置いたらやっと休めるかと思ったのだけど、そうもいかなくて。すぐにみんなで夕食の支度に入った。
忙しないことこの上ない。
スケジュールを組んだ教師を少しだけ恨めしく思いながら、それでも尽は献身的に動いていた。否、動かざるを得なかった。調理することに慣れてない周りが危なっかしくて仕方がないのだ。
「これでよし、と。おい、そっちもそろそろ終わったかー?」
ジャガイモの処理を一通り終えて振り向いた尽だったが、そのままで固まる。玉緒の手伝い──タマネギ切りに回った男子生徒ら全員が盛大に涙を流しつつ、縋るような眼差しを向けていたのだ。
「……わかったよ、オレもやるって」
大きく息を吐き出して、転がっていたタマネギに手を伸ばす。誰かが途中まで刻んだそれを、あっさりと最後まで終えると どよめきがそこここから漏れた。
「すげぇ……っ 将来、俺の嫁さんにならないか!?」
「何で嫁なんだよ! ヤローは勘弁。そういう趣味ないんだからさぁ」
げんなりしながら包丁を動かしていると、別の少年が興味津々の声を上げてくる。
「なあ。前から気になってたんだけど、東雲ってどんな子がいいんだ? つか、あの三人の中に本命っていんの?」
「紺野は知ってる? こいつの好みー」
「ううん、知らないけど」
すっかり手を止めて話に花を咲かせる彼らを尽は半眼で睨んだ。こいつら夕飯いらないのかと思わずにはいられない。
「あ。もしかして、日比谷が本命!? おまえ、仲良いじゃん」
「あいつは女じゃねぇよ。……ってぇ!」
ぽつ、と呟くと何処からともなく飛んできた薪が後頭部にヒットした。誰がやったかは、考えなくてもわかる。恐るべき地獄耳だ。
「身から出た錆ってこういうことを言うんだよね」
にこにこと微笑む玉緒を睨み付けて、大仰なぐらいに溜息をつく。
「──ちょっと鈍くて、少し我が儘で、手が掛かるけど可愛くて放っておけない。そんな子がいいんだよオレは」
だから日比谷は全然違うと頭を振ると、周りの友人らは理解に苦しむみたいな表情を浮かべた。
「東雲って変。」
「い、いいだろ、別に!」
一言で言い切られて、尽はむっとする。確かに一般的な回答とは違ったかも知れないが、『変』はないだろうと思った。
「フツーは、優しい子がいいとか美人がいいとか巨乳がいいとか言うのにさー」
「だよな。変わった趣味っつーか」
「ああもう、うっさいな! ほっとけよ! くっそ、マジメに答えなきゃ良かったぜ」
恥ずかしくて顔が熱い。耳まで赤くなっているということが安易に想像出来て、それがものすごく嫌だと思った。別に誰が好きだとバレたわけではないから、こんなに焦る必要はない筈なのに。
「……?」
自分の思考に、引っかかりを覚えて手が止まる。
誰が好き──?
「ねえ、男子のほうは終わったー?」
他の野菜や肉を担当していた女子が、離れた場所から催促するように呼んでくる。はっとしたみたいに尽は顔を上げた。
「い、今、終わる!」
慌てて応えながら、包丁を握り直す。小さな違和感はその拍子に霧散した。
「ほら、おまえらも早く! 怒られるだろ!?」
女の子話を続行していた連中の足を順番に踏みつけて急かす。上がるぼやきを聞き流しながら、尽は猛スピードでタマネギを刻んだ。
これ以上遅くなったらマズイ。そんなことを考えていると背中に視線を感じた。作業の手は止めないままで振り向いた尽は、玉緒が何かを思案してるみたいな目で見つめていたのを知る。
何だよ一体。
その疑問が口を衝いて出る前に、再度女子から催促が来た。
「早くー! もう他の班はルー入れてるよー?」





夕飯を終えたら、あとはあっという間に過ぎていった。キャンプファイヤーに肝試し、そして天体観測。その一通りを体験し、スケジュール全てこなして残ったのは達成感と疲労感である。
消灯時間を過ぎてしばらくは はしゃいでいた級友達も、やはり疲れが出たのかすぐに撃沈してしまった。健やかな寝息を立てて夢の国へと旅立って行ってしまっている。
静まり返ったバンガローから抜け出して、尽は一人テラスで膝を抱えて座り込んだ。どうやっても眠れない。
「──虫に刺されるよ?」
不意に声を掛けられて、苦笑する。やっぱりこいつも起きてたかと思った。
「おまえも眠れないんだ?」
視線はそのままで聞くと、頷く気配を感じる。
「早乙女くんの歯ぎしりが気になってね」
あっさり玉緒は応えて、尽の隣にすとんと腰を下ろした。
「──なあ。オレの趣味ってそんなに変?」
少しの間黙り込んでいた尽だったが、ぽつ、と口にする。
どうでもいいことの筈なのに、何故かずっと気になっていた。
「変かどうかは解らないよ。ただ、僕はその手のタイプは苦手だな。面倒くさい」
「あー、まあ、玉緒はそうだと思うけどさ」
まだ少し湿っている髪の毛を指先で弄る。
「みんなして変だっていうから、納得いかないっていうか」
持て余した感情に溜息が零れた。
何なんだろう、この気持ちは。
「尽は自分の好きな人のことを否定されたみたいで嫌なんじゃないの?」
「──あ?」
言われた意味が解らなくて、まじまじと彼を見つめる。そんな尽に玉緒は笑って、言葉を続けた。
「日輪さんのことを悪く言われたくない。違う?」
「……なんでここで、ねえちゃんが出てくるんだよ?」
質問に質問で返すが答えはない。ただ、見透かすような視線だけが向けられていた。
ざわざわと葉擦れの音が響く。夜の冷たい風に身体は冷えていくのに、汗が背中を伝っていくのが解った。
「だ、だって、ねえちゃんだぞ? 実の姉貴で、血が繋がってて……」
言い募る声が掠れる。おかしいぐらいに喉が渇いていた。
「絶対違う。あり得ない。おかしいだろ、そんなの」
否定するみたいに頭を振って、笑い飛ばそうとしたけれど。それは引きつって歪むだけだった。
──笑えない。
尽はどうしたらいいか解らずに、膝に顔を埋めた。
「僕はさ、将来 総理大臣になるつもりなんだよね」
唐突に玉緒が呟く。のろのろと視線を上げると、至極真面目な顔があった。どうやら冗談で言ったわけではないらしい。
「国を動かすには、『人間』を知ってないといけないって思うんだ。だから、人を観てる。人って面白いよね、本当に」
「何が言いたいんだよ」
硬い声で訊ねると、玉緒は肩をすくめた。
「僕は否定しない」
絶句した尽に彼は笑う。いつもの皮肉めいたものでなく、ごく自然に。
「尽が日輪さんを好きでもね」
「──オレがねえちゃんを好き?」
誰に問うでもなく呟く。音になったそれは、驚くほどすんなりと胸に収まった。
「嘘だろ……」
「思い当たる節はある筈だよ。いつだって、必死になるのは日輪さんのことばっかりなんだから。すごく解りやすいよね」
面白がってるみたいな声音で畳み掛けるように言う玉緒を力無く睨んで、尽はゆっくりと息を吐き出す。
確かに、節は有り過ぎた。あの時も、その時も、想いのベクトルは全てが姉へと向かっている。
大事だとは思っていた。でも、それはたった一人の姉だからで。恋だとかそうじゃないとかなんて考えたこともなかった。
ぐるぐるしたその思考が顔に出ていたのだろう、彼はくすりと笑うと とんでもない事をさらりと言って退けた。
「日輪さんは性的欲求の対象に入ってるだろう?」
「なっ……な、なに言ってんだよ!?」
かっと満面を朱に染めた尽だったが、それを気に留めず玉緒は続ける。
「一般的には血縁者をそういう目では見られるものではない。僕もそれは例外でなく、姉さんとどうこうするなんて想像も出来ない。よって、想像出来る尽は立派に近親相姦者の素質があると言えるだろう。──納得してくれたかな」
淀みなくすらすらと述べてから、彼は咳払いでそれを締めた。ものすごくこの状況を楽しんでるみたいな様子は伝わってきたけれど、それを怒鳴りつけるだけの気力が今の尽にはない。
色々とショックだった。
「ああ、そういえば変態性欲を略して変態って言うんだってね」
追い打ちを掛けるみたいな玉緒の言葉に、どうしようもなくなって空を仰ぐ。
ぽかりと浮かんだ丸い月は何故か滲んでぼやけて見えた。





殆ど眠れないで迎えた朝は、爽やかなものとは程遠い。ガンガンする頭を押さえて、尽はバンガローから集合場所に指定されていた広場にふらつく足取りで向かっていた。
まだ朝だというのに日差しは強く、蝉の声は大きい。堪えがたい不快感に小さく舌打ちした所で、おずおずと背後から呼び止められた。
「あの、尽くん、今ちょっといい?」
振り向いた視線の先には、隣のクラスの女の子が一人。少し俯いた顔は赤らんでいて、ある種の予感を尽にさせた。
「いいよ。場所、移動しよっか」
耳の後ろを指先で弄りながら告げると、彼女は小さく頷く。
先の予感はやっぱり当たっていて。人目に付かない所に移った後に、尽は震えるような声の好きですを聞いた。


*  *  *


息を切らせて広場にやってきた尽は、まだ教師が来てないことにほっとした。集合時間ギリギリになってしまったのは、らしくなく女の子を泣かせてしまったからである。
苦い気持ちを飲み込みながらすとんと地面に腰を下ろすと、後ろから感情の読めない玉緒の声が聞こえてきた。
「頭、蜘蛛の巣付いてる」
「あー……」
投げやりに応えつつ、手で払う。髪の毛に絡まっていたらしい、少しねばねばしたものが指先についた。迷ってから、すぐ近くに生えていた草になすりつける。
「きっぱり断るなんて珍しいね」
「何で知ってんだよ」
「知らないけど。やっぱりそうだったんだ」
肩越しに彼を見遣った尽の驚愕の表情は、鎌をかけられたことに気付いてすぐに失敗を表した。
「玉緒って相変わらず、いー性格してるよな」
「ありがとう」
「いや、褒めてないからちっとも」
苦虫を噛みつぶしたみたいな顔のまま低く呻くと、玉緒が含み笑いを見せる。
「もしかして、観念したから?」
言外に、気持ちを認めたのかと言われて、尽は返答を避けるように視線を前に向けた。
担任教師がちょうどそこに姿を現した所で、タイミングよく話は中断される。
認めるわけにはいかないのに、好きだと言われた時に尽が考えていたのは日輪の笑顔だった。





はぁ、と溜息を吐く。何度目かはもう数える気にもならなくて、尽はまたそのことに溜息を吐きたくなった。
何やってるんだろう。その思いが一番強い。自分ちのドアの前で、こうしてぼーっと突っ立ってたってどうしようもないのに。
「あれ。尽?」
柔らかな声が何故か背後から聞こえて、身体が硬直した。振り向けない。
「意外と早かったね。どう、楽しかった?」
軋んだ門の音がして気配が近付いた。尽はこくんと唾を飲み込むと恐る恐る視線だけを横に向ける。そこには、想像通りの──否、想像とは微妙に違った日輪が居た。
「ねえ、ちゃん……?」
「なに、変な顔して」
ポケットから鍵を取り出しながら、くすくすと彼女は笑う。一日ぶりのその笑顔は妙に眩しくて。頭の芯が痺れるのを感じた尽は慌てて頭を振った。
「や、なんでもない、けど。あのさ、ねえちゃん美容院とかエステとか行ったか?」
もつれる舌を何とか動かすと、彼女が目を瞬かせる。
「行ってないけど。なんか、違う?」
「うん、なんかすっげ綺……」
無意識に言い掛けた言葉にはっとした。
すごい綺麗って、何だよそれ。
顔が火照るを止められずに、ぎゅっとリュックの肩ひもを握りしめる。
「綺、き、昨日と違うなぁって思っただけ!」
苦しい誤魔化し方だったけれど、それでも日輪は納得したみたいだった。鍵穴に差し込んだ鍵を抜くと、家に入ることを促すみたいに尽を見る。
跳ねるみたいな心臓を服の上から押さえつけて、こくんと尽は頷いた。ドアノブを捻る。
「おかえり、尽」
玄関に足を踏み入れると、後ろから彼女が言った。見慣れた玄関に響いた聞き慣れたその言葉は温かい。たった一日離れていただけなのに、それをおかしいぐらいに嬉しいと思った。
「ただいま」
振り返った先に立つ日輪が、声に応えるようにふわりと微笑む。鮮やかなその笑顔にぐん、と体温が上がるのがわかった。制御しきれない感情が身の内にあるのを感じて、唇を噛む。
泣きたいかも知れない。どうしようもなく好きだと、気付いてしまった──。
「ありかよ、こんなの……っ」
「なにが?」
口を衝いて出た言葉に、彼女がきょとんと間近から見つめてくる。思わず尽はそこから逃げるように身を引いたが、それが裏目に出た。段に足をぶつけて、バランスを崩す。
やばい。そう思った時には既に遅くて。尽は壁に思い切り激突する。
「尽!?」
遠離る意識の中でも、彼女の呼ぶ声だけが鮮明に残った。


*  *  *


ラジオ体操の待ち合わせ場所に時間ちょうどでやって来た玉緒が、少し驚いたみたいに目を見開く。右のこめかみ付近をまじまじと見つめられて、尽は苦々しい気持ちになった。
だから、湿布なんていいって言ったのに。そんなことをここには居ない姉へとぼやきたくなる。
「何しでかしたの?」
明らかに面白がってる口調の彼を睨み付けて、隠すように右手で押さえた。一晩明けてもまだ腫れの残るそこは、鈍く痛い。
「何もしでかしてねぇよ! ちょっとぶつけただけなんだからなっ」
昨日の失態を悟らせるわけにはいかず、目を反らした。
頭を打って気付いたら膝枕されていて、それで更に鼻血まで出したなんて。言えるわけがない。
「いいから行くぞ。始まっちゃうだろ」
首にぶら下げたカードをピン、と指で弾いて尽は駆けだした。玉緒が後から付いてくるのを感じながら、目線を上げる。夏の色を映した空は今日も深く、じきに気温が高くなることを予想させた。
「なあ、たまおー」
呼んで、顔だけを後ろに向ける。少し躊躇ってから、それでも何とか言葉を押し出した。
「総理大臣って、法律変えられるよな?」
「それは、日輪さんが好きだから?」
先を読んだように質問を重ねられて、尽は苦笑する。そして、しっかりと頷いた。
「ああ。オレはねえちゃんが好きだ。だから──」
「少しは進歩したね。でもさ」
のんびりと走っていた足を玉緒は止める。それに釣られるように尽も足を止め、言葉の続きを待った。
「姉弟の結婚はどうやっても無理だと思うけど」
「そんなあっさり言うな!」
ショックを受けたみたいな尽に肩をすくめて、玉緒はふと思い出したみたいに告げる。
「ああ、そういえば。日輪さんの膝の上は居心地良かった?」
「な、んでそれ……!?」
愕然と呟くと、ニヤリとした笑みが見えた。


蝉の鳴く声に混じって、ラジオ体操の音楽が聞こえてくる。夏休みはまだ始まったばかり。