Antirrhinum majus
「あ。守村先輩!今日、お誕生日なんスよね!おめでとうございます!」
突然響いたその声に、花壇に水を遣っていた守村は驚いて振り返った。
いつの間にか近付いて来ていたらしい日比谷の姿が、その目に映る。
ユニフォームを着込んだ彼は、いつも通りに元気が良さそうで声に張りがあった。
どうやら朝練のランニングの途中らしく、足を動かしたままでにこにこと全開の笑顔を
守村に向けてくる。
「え…あ、ありがとう。でも、日比谷くんはどうしてそれを?」
やや面食らいつつも尋ねると、彼は開けっ広げに答えた。
「昨日、先輩に聞きました!──あ。コーチに見付かったみたいッス!そろそろジブンは
行きます!」
それでは、と来たとき同様に唐突に彼はそのまま去っていってしまう。
呆然とその後ろ姿を見送りながら、守村は誰に問うでもなく呟いた。
「先輩って…誰だろう?」
梅雨明け宣言を控えた空の下、はばたき学園の生徒達が疎らに校門を通り、学舎へと足を進め
ている。時計台が自然と目に映り、まだ始業には随分時間があることが知れた。
人物の特定は難しい。
すっかり水を吐き出した如雨露を抱えて、守村は何度も首を捻るのだった。
*
概ねいつもと変わらない一日を過ごしながら、いつもと違う部分に守村は困惑していた。
知り合いに会う度、悉く誕生日を祝われるのだ。
迷惑というわけではなく、むしろ嬉しいくらいなのだが、どうしても不思議だった。
男の誕生日は覚えないであろう姫条や、バスケ以外はあまり得意でなさそうな鈴鹿、何かを
凌駕していそうな三原、そして、あの、人にあまり関心を示さない葉月でさえ、守村の顔を見ると
「誕生日なんだろ、お前。…おめでとう」などと言ったのだ。
これを不思議がるなという方が無理である。
守村自身は彼らに言った覚えはなかった。
男同士で誕生日を教え合いをする、というのはあまりないのだ。
──何故、僕の誕生日を知っているのですか?──
その疑問を改めて口にすると、答えは決まって「聞いたから」というものになった。
それで、ようやく彼は一人の人物に的を絞ることが出来た。
彼らに共通する人物を特定するのは、そんなに難易ではない。
恐らく彼女だろう。否、彼女しかいない、そう思えた。
だけど。その肝心の彼女には、まだ今日は一度も会えていなかった。
彼女のクラスに行っても、丁度席を外していたりして、居ないのだ。
「作為的なものを感じるのは、僕の気のせいでしょうか」
肩を落として、ぽつりと守村は呟く。
誕生日を覚えていてくれているのなら、彼女の口からおめでとうを聞きたい。
欲深いことを承知していても、彼はどうしようもなくそう思った。
いつの間にか、それほどまでに彼女に惹かれている自分に気付く。
自嘲気味に笑って、守村は屋上へと続く階段を上った。
休み時間も全て空振りに終わり、今は既に放課後。
彼に残された時間は僅かだ。
まだ帰宅していない彼女が居そう場所は、もうここしかない。
重たい鉄のドアを押し開けると、守村は眩しげに目を細めた。
「お誕生日おめでとう、桜弥くん」
彼を待っていたらしい彼女が、柔らかい言葉と同時にふわりと微笑んだ──。
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