桜の雨、いつか
橙の時間は疾うにすぎ、空は藍から闇の色へと変わっていく。
緩慢に夜が訪れようとしているのだ。
昇降口から一歩足を踏み出した零一は、特にそれを目に留める風でもなく見遣ってから、学生鞄をしっかりと持ち直した。
流石にこの時間ともなると残っている生徒は少なく、校内は静寂に包まれている。それを不気味と取るものもいるかも知れないが、零一は返って落ち着くぐらいで気に入っていた。
ともあれ、誰ともすれ違わずに零一は校門に向かう。あと十メートル程で敷地外だ。
頭の中でこれからすべき事を思い描いて、一度頷くと。一陣の風が、吹き抜けていった。
それに一瞬遅れたみたいに、ひらひらと何か白いものが辺りに舞う。
いくつもいくつも身体の上に降ってくる、その一枚を手のひらで受け止めて零一はぽつりと呟いた。
「桜…か」
恐らく、学園裏の森から飛ばされてきたものだろう。それだけを無感情に思う。だが、足はその方へと向けて動き出していた。特別に見てみたいと思ったわけではないから多分、気まぐれと呼ぶものなのだろう。零一は頭の端で自分の行動をそう評して、息を吐き出した。
*
限りないみたいに、白が舞う。それは雪というよりも雨が降っている様に似ているかも知れない。
古びた教会を視野に入れながら、零一はそんな感想を抱いた。
しかし、それはすぐに消える。石段の上に子供が座り込んでいるのを見つけたからだ。
「そこの君。子供の遊ぶ時間にはもう遅い。ご両親も心配されるだろうから、早く帰りなさい」
零一の声に初めて人が居たことに気付いたみたいに、その子供は視線を上げた。
見つめてくる目は今にも泣き出しそうで、零一をぎくりとさせる。こんな時は思う。益田のように振る舞えたらいいと。──思っても無理なものは無理なのだが。
子供は帰らないと言うように、ふるふると頭を振った。
どう説得したものか逡巡していると、小さな声が耳に届く。
「ここはかみさまにちかいばしょなんでしょ。だから、おいのりしてるから、まだかえらない」
拙い言葉に目を瞬かせと、子供は一生懸命になって伝えようとしてきた。
「あたし、おねえさんになるの。でも、あかちゃんがまだうまれないの。おかあさん、がんばってるんだって、おとうさんいってたけど。でも、たいへんなんだって」
そこまで言うと、くしゃりと顔を歪ませる。涙が、頬を滑り落ちた。
「おかあさんもあかちゃんもしんじゃったらどうしよう…」
後はもうしゃくり上げて言葉にならなくなる。零一は途方にくれて、ただその子供の隣に立った。こういう場合はどうしたらいいのだろう。学んできた勉強はちっとも役に立ちそうもない。
風が吹くたびに舞う花びらが目の端に映る。零一は腰を落として、躊躇いがちに子供の頭を撫でた。
びっくりしたみたいに見てくる瞳に、照れくさくて視線を逸らす。
そして、気休めかも知れないと思いながらも、言葉を口にした。
「きっと大丈夫だ。神様もちゃんと力を貸してくれるだろうから、君ももう帰りなさい」
校門の外まで一緒に歩いていく。零一の手を小さな手が掴んでいて、それは何故か懐かしいような、暖かいような気持ちにさせる。
「その。本当に送っていかなくて平気なのか?」
「うん。すぐちかくだから、へいき」
ぎこちなく問う零一を見上げて、にっこりと笑う。
「ありがとう、おにいちゃん。ばいばい」
言って子供はぱっと手を放して、駆けていく。小さな姿がさらに小さくなり、やがて見えなくなった。
零一はほっと息を吐くと、知らずに緩んでいた頬を引き締めて帰路につくのだった。
*
はらはらと桜が舞う中、古びた教会を見上げるようにして立つ彼女の姿を見つけた。
「東雲。こんな所で何をしている」
零一の声にゆっくりと彼女は振り向くと、少し困ったように笑う。
「ええと。お祈り、していたんです。氷室先生」
「お祈り…」
彼女の言葉に11年前のあの出来事が鮮明に蘇ってくる。
まさか彼女があの時の子供なのだろうか。その想いが胸を占める。
「昔、尽が──弟が生まれる時も、私、どこかの教会でお祈りした事があって。それで、ここで祈れば、願い事が叶うような気がしたんです」
「神頼みというのは感心しない。自分で叶える為に、努力すべきだと思うが」
考えている所と別の所で、勝手に言葉が滑り出ていた。これは彼女を傷付ける言葉だと思っていても、途中では止まらない。
「はい。それは、解ってます。でも…あまりにもそれは難しい事だから、少し何かに縋りたかっただけなんです」
ちゃんと努力もします。そう言ってふわりと微笑むと、もう一度教会へと視線を向けた。
「そうか。それを聞いて安心した。必要であれば私も教師として力を貸そう」
「ありがとうございます」
零一の言葉に彼女は頷く。が、何故か苦笑して見えるのは気のせいだろうか。
「東雲。君はあの時の……」
確認しようとして、止める。もしあれが彼女だったらどうだと言うのだろう。何かが変わるわけでもない筈だ。
だが。そうであって欲しいと強く望んでいる自分が居ること、零一は感じていた。
「いや、何でもない。そろそろ昼休みが終わる。教室に戻りなさい」
彼女は不思議そうに瞬きをしたが、逆らわずに返事をしてくるりと背を向けた。
花びらがその間も絶えずに、降る。
遠離る背を見送りながら、零一は小さく呟いた。
「どこかの教会でなく、この教会が君の『神に近い場所』である事を俺は祈ってもいいだろうか──」
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