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「行って来ます」
「いってきまーす」
返事がないことを知っていても、玄関先で声を張り上げる。習慣とはこういうもの。
幼い頃住んでいたはばたき市に戻ってきて、もう二年が経つ。余所の家のように感じていたこの家にもすっかり馴染んで、今では目を瞑っていても何処に何があるのかが解る程になっていた。白い壁に濃紺の屋根。見送るものの居ないそれを一度見上げて、日輪は、ゆっくりとドアを閉めた。
「ねえちゃん。鍵、ちゃんと持ってるか?」
後ろから掛けられた声に振り向いて、頷く。
「うん。ばっちり」
「何がばっちりなんだか。この間もそう言って持ってなかったよな」
声変わり前の少し高めの声で尽が呆れたように言う。
「う、うるさいな。前のことはいいの!」
両親は共働きで、子供達よりも朝が早い。だから必然的に最後に家を出る日輪が戸締まりを任せられていた。とは言え、日輪はうっかりすることが多くて、それを見かねた尽が主になっていたりするのだが─。
風が吹き、玄関脇に植えられた常緑樹の枝葉を揺らす。数瞬遅れて、スカーフの先端がひらひらと舞った。それを左手で押さえて落ち着かせて、鍵が掛かったことをノブを捻って確認する。大丈夫そうだ。右手に伝わる感覚に日輪は、うん、と一度頷いた。
「んじゃ、行こっか」
言って手を差し出すと、尽はふい、と視線を逸らす。
「別にオレ、一人でも歩けるから」
「そっか」
呟いて、日輪は所在なく自分の手を見下ろした。
同じようなやり取りを交わしていても、前とは違う。そのことに薄々気付いてはいたけれど、こうして目の当たりにして、はっきりと解った。
尽は、大人になろうとしている──。
成長を喜ばなければいけないのに、何故だろう。寂しさが胸に広がる。
「尽ももう六年生だもんね」
それを悟らせないように、いつも通りに見えるよう、笑みを作った。
「まあ、ね」
頭の後ろで手を組んで、尽は同意するように曖昧に頷く。けれど、その目が酷く淋しそうに見えて、少し気に掛かった。
「……尽?」
どうかしたの? と問い掛けるより早く、尽は意地の悪そうな顔に戻って言う。
「あのさ、ねえちゃん。のんびりしてるとまた遅刻するぞ?」
「え……? あっ!」
腕時計に目をやって、日輪は青ざめた。
「まずいよ、尽! ダッシュ!」
「了解。……たまにはゆっくり歩いて行きたいよなー」
「だから、いつも、言ってるでしょ、……先に出ても、いいって!」
走りながらの言葉は切れ切れとなるがそれでもちゃんと届いたらしい。尽は走りながら、器用に肩をすくめて見せた。
「オレがいないとねえちゃん駄目じゃん。遅刻ももっと増えると思うぜ?」
「そんなこと……っ」
「ない、なんて言えないだろ? 朝だってオレが起こしてるわけだし?」
ぐっと言葉に詰まると尽はふふん、と得意げに笑う。
走る速度で流れる景色。住宅のそれが街へと変わる境目で、日輪は一度足を止めた。尽も同様に立ち止まり、見上げてくる。はばたき学園へ通う日輪と、市立の小学校へ通う尽はここで道を分けるのだ。
「じゃあな、ねえちゃん」
「うん。気を付けてね」
手を振る日輪に尽は頷いて、軽やかに坂を上っていく。それを少しだけ見送って、日輪もまた駆けだした。
よく解らない気持ちはとりあえず仕舞っておくことにする。今はただ時間に間に合うことだけを考えないといけない。さすがにこれ以上、遅刻の回数を増やすわけにはいかないのだから。

***

「この分なら、あっちも間に合ってるだろ」
級友たちと朝の挨拶を交わしつつ席へ着いた尽は、黒板の上に取り付けられた時計を見上げ呟いた。
「おはよう、尽。今日もギリギリだね」
肩越しに振り返ると、日直日誌を腕に抱えた玉緒がそこに居た。
「あれ。今日の日直ってお前だっけ? この間もやってたよな」
ランドセルから教科書を取り出しながら聞くと、彼はにこりと笑う。
「その首から上に付いてるものに、日輪さん以外のことを覚えさせたいよね」
「……もしかして、オレ?」
ちらりと伺うように視線を向けると、大仰にため息をついて彼は頷いた。
日輪の友人である紺野珠美の弟である玉緒は、確かに姉弟だと納得せずにはいられないおっとりとした雰囲気を備え持っていたが、その実は腹黒で底意地も悪い。
「今日も仲良く手を繋いで途中まで一緒に来たんだ?」
「繋いでねぇよ」
揶揄するような口調にむっとして言い返すと、意外なことを聞いたみたいな顔をして、玉緒がまじまじと見つめてきた。
「何?」
居心地の悪いその視線に耐えかねて尽が問うと、玉緒はあっさりと答える。
「いや、変だなと思って」
「これがフツーだろ?」
玉緒の腕から日誌を抜き取って、ぱらぱらと捲る。まだ書き込まれていない新しいページに辿り着くと、尽はシャーペンで日付を記した。
「弟であることを最大限に活用しないと勿体ないよ。どうせ報われないんだしさ」
「……報われないかどうかなんて、まだわからないだろ」
半眼で睨み付けると、玉緒は肩をすくめてみせる。勝手にすれば? というそんな態度だ。尽は小さく舌打ちすると、紙面に視線を戻した。

──手を繋がれるだけの子供じゃ嫌だ──
──この手は日輪を守るために、抱きしめるために、使いたい。だから──

「早く、大人になりたい」
思わず口に出してしまった言葉に、玉緒が目を瞬かせる。
尽は何でもないと頭を振ると、誤魔化すみたいに日誌を勢いよく閉じた。





「ねえちゃん、起きろよ」
朝を告げる声。その低めの甘い響きに意識は覚醒される。ゆっくりと瞼を持ち上げた日輪は、白い天井をぼんやりと見つめ、数回瞬きを繰り返した。
「……ホント朝 弱いよなぁ」
嘆息混じりの呟きに、日輪はのろのろと視線を窓辺へと移した。そこに、背を向けて遮光カーテンに手を伸ばす尽の姿を見つける。
「今日は一限目からあるんだろ?」
シャッとレールを滑る音と同時に光が差し込み、眩さに反射的に目を細めた。
「眩しいよぅ……」
「そりゃ当たり前」
言って、尽は腰に手を当てる。じっと見つめてくるその瞳に逆らえず、渋々と身体を起こした。
「大変結構」
悪戯っぽく笑って、くしゃりと頭をかき混ぜるように撫でる。その手はいつの間にか大きくなっていて、まるで知らない男の人のよう。
「なに眉間に皺寄せてんだよ」
とん、と指先で触れられて、日輪はベッド際に立つ尽を見上げた。
「だって。尽ズルイんだもん……」
何が、というような不可解な表情を尽は浮かべる。 その襟に掛かっているだけのネクタイを掴み、日輪は言葉を継いだ。
「いつの間にかにょきにょき背が伸びて、仕草も大人っぽくてなっちゃって。……私の方がお姉ちゃんなのに」
「オレは植物かよ……。つーかさ、ねえちゃんが子供っぽいだけだと思うけど?」
「子供っぽくないもん」
「ほら、そうやってすぐムキになる」
くく、と喉の奥で笑われて、皺は余計深くなる。当たっているだけに、反論は出来ない。
悔し紛れにえんじ色のネクタイを蝶々結びしていると、尽がぽつりと言葉を零した。
「オレは早く大人になりたかったから、それでいいの」
「え?」
ともすれば聞き逃してしまいそうなその呟きは、昔、仕舞い込んだものを蘇らせた。
それは寂しいという感情。でも。
──それだけじゃ、ない? ──
確かな違和感。落ち着かない感覚に日輪は息を凝らした。指がネクタイから離れる。
「ねえちゃん?」
「な、なにっ!?」
突然目の前へと迫った尽の顔に、あっけなく思考は霧散した。
「いや、急に黙り込んだから、また寝たのかと思って」
「ちゃんと起きてるよ」
答えて、ふい、と視線を逸らした。真っ直ぐな尽の視線は何故か耐え難い。
「もしかして具合、悪いのか?」
そっと額に手を当てられて、日輪はびくりと身体を強ばらせた。
「ね、熱なんかないって」
「だって顔赤いじゃん。──それとも何? オレに惚れたとか?」
可笑しそうに笑いながら言われた言葉に、声を失う。
──惚れた? 尽が好きだってこと?──
それはすとんと胸に、あるべき場所に収まったように感じた。体温が、上がる。

***

直ぐさま否定されるかと思った言葉は、しかし反応がなく、そのまま響いて消えた。
予想外のそれに、尽は都合良く解釈してしまいたくなる気持ちを必死で抑えつけた。
そんな夢みたいなこと、あるわけがない。そう自分に言い聞かせる。
でも、切実に思う。そうだったらいいのに、と。
「……マジでそう、なのか?」
掠れる声で問うと、日輪は焦ったみたいに激しく頭を振った。
「ち、違う! 何言ってるの、尽ってば! もう、朝から巫山戯たことばっかり言わないの!」
真っ赤になりながらぎこちない素振りでそんなことを言われても、説得力など全然ない。
徐々に染みこんでくるのは、震えるほどの歓喜。だけど。ちゃんとした確証が欲しい。
「こっち見てよ、ねえちゃん。──本当に違うの?」
尽は身を乗り出すように、ベッドに手を付いた。スプリングが僅かに軋んだ音を響かせる。
探るように横顔をじっと見つめていると、日輪はがばっと布団の中に逃げ込んでしまった。
「違うって言ってるのに……っ! 馬鹿尽」
泣き出しそうなその声に日輪の戸惑いが伝わってくる。
尽は肩をすくめて、それ以上を望むのは止めにした。今はそんなに欲張る必要はないだろう。諦める必要がないことを知れただけでも幸い。それだけでも尽には充分過ぎることだった。
「解ったよ。そういうことにしとく」
ぽつりと告げてから、そっと布団越しにキスをする。
追い詰めるだけだろうから、今は好きだとは言わない。でも、きっと。近いうちに想いを音に出来る日が来るだろう。だから。
「とりあえず。──起きろよ、ねえちゃん。遅刻しちまうだろ!」
しばらくは弟でいてもいい。そう思いながら尽は布団の中から日輪を引っ張り出した。
「いーやー!」
「何が嫌だよ。ほら、ちゃんと立つ!」
赤い顔のままでじたばたと暴れる日輪を床に下ろして、尽はこっそりと両手に意識を向けた。

引かれるだけだった小さな手はもう、守れるものになれたのかも知れない。