修学旅行
見上げた空は前よりも少し高く、季節が徐々に移ろっているのを知る。だが、暑さはまだ停滞していて、少し動くと汗ばんでくる。そんな時期である九月の中旬、はばたき学園高等部第二学年の生徒達は修学旅行にやってきていた。
移動するだけの一日目を終え、二日目の今日は団体行動で奈良のあちこちを巡る。若いガイドの後ろを母鳥を追う雛の如く、少し頼りなげな足取りで─色々な建築物に気を取られているせいで─ふらふらと続く。東雲明日香もその内の一人だった。ただし、彼女の視線を奪うのは、他校の学生の姿だったが。
「明日香! アンタ、どこ見てるのよ」
後頭部を小突かれて、明日香は慌てて振り返る。するとそこには藤井奈津実の姿があった。
「なっちん、ここ氷室学級だよ? 自分のクラスのほうに居ないとまずいんじゃない?」
肩をすくめて見せると、奈津実は朗らかに笑う。
「そんな細かい事は気にしたら駄目だって。折角の旅行なんだし!」
「氷室先生に見つかっても知らないよ?」
「大丈夫だって。見つからないよう、上手くやるからさ。─で、心ここにあらず~って顔してるけど、何かあったわけ?」
きらりと輝いた目は期待に充ち満ちていて、明日香はつい苦笑を浮かべてしまう。
「奈津実ネェさんが期待しているような事は何にもアリマセン」
不満げな声を上げる彼女に、ただ、と付け加えて言った。
「知り合いもちょうど修学旅行でここら辺に来てるらしいから、いないかなぁと思ってたんだ」
「知り合いって……ああ、もしかして例のメールの人? ええと、確か名前が……」
奈津実は必死に思い出そうと難しい顔をしてうなり声を上げる。その姿に明日香は笑んで、頷いた。
「うん。千晴くん」
「そうそう、チハルくん! そんな名前だった! あー、スッキリした。っと、そうじゃなくて。来てるんだ? チハルくんも」
「うん。一昨日届いたメールにそう書いてあったからね」
『僕は明日から修学旅行です。
京都と奈良に行って来ます。
アメリカには「修学旅行」というものはなかった ので、今からとても楽しみです。
友達にどんな所かを聞いたら、シカとマイコさん が居ると教えてくれました。
シカは解りましたが、マイコさんとは誰でしょう。 有名な人なのでしょうか。
明日香は会った事がありますか?』
見慣れたアドレスで送られてきたメールにはそう綴られていた。
微笑ましい内容に頬を緩めながら、明日香はすぐに返信して、マイコさんとは舞妓さんの事だと教えたのだった。ついでに自分も明日から同じ場所に修学旅行に行く事を書いたら、またすぐにメールは返信されてきた。まるでチャットのようだと思いながら受信メールを開くと。
『もしかして、どこかですれ違うかも知れませんね』
それだけの短い文章が書かれていた。確かにあり得ない話ではない。そう思ったら、少しどきりとした。千晴という人間が、確かにそこに居るのだと感じたのだ─。
「きら高だったよねー、確か。探してみる?」
奈津実のその声に回想から呼び戻される。明日香は少し考えてから、緩く頭を振った。
「いい。偶然会えたらいいなぁって思っただけだから」
「えー! 何でー?!」
不満げな声を上げた彼女は、しかしすぐにニヤリと笑う。
「そっか。アンタ好きな人いるもんね? 他のオトコを見ようって気にはならないか」
「なっちん!!」
からかうような口調の奈津実に赤くなって明日香が声を張り上げると、彼女が「げ」の形で口を開いて固まった。一瞬どうしたのだろうと思って。だが、すぐに察した明日香は首を竦めて、そっと背後を振り返る。
するとそこには。予想に違わず、担任教師氷室零一が仁王立ちで立っていた。
「東雲、藤井。君達は修学旅行の目的を理解していないようだな」
さっきまで暑かった場が、一気に冷たくなったような気がした……。
* * *
「あー、ヒムロッチめー。何もこんな所に来てまで『両名とも明日までにレポートを提出するように』なんて言わなくたっていいじゃんねえ?」
口元を尖らせつつ、奈津実はシャーペンを握りしめて拳を作った。
「まあまあ。早くやらないと終わらないよ? 終わらないと明日の自由行動はナシになっちゃうんだからさ」
宥めるように言いながら、明日香はペンを走らせる。
観光を終えてホテルに戻ってきた はば学の生徒達は就寝までの時間を各々好きに過ごしていた。本当ならば明日香も奈津実も男子生徒の部屋に遊びに行く予定だったのだが、それは無理そうだという結論を出した。─このレポートは何としても終わらせなければならない。
「アンタとか志穂みたいに、こういうのが得意だったらいいんだけどさー」
書いては消しを繰り返しながら、奈津実は文句を零す。だけど、決して止めようとしないその姿は潔い。
「なっちんのこういう所、好きだな 私」
「は? 何? もしかしてアタシ告白されてるの?」
少し突飛だったのかも知れないと思いながら、明日香は苦笑しながら首を振った。
「違うってば、もう。口ではヤダって言っててもさ、ちゃんとする所が、だよ」
「ああ、そういうことか。……だってさ、ヤじゃん?嫌いだから苦手だからってやらないで逃げるのって」
にっと笑ってみせる彼女に頷いて、明日香はペンを置いた。
「よし、と。完成ー」
「ええ?! アンタもう出来ちゃったの? ずるいー」
「ずるいって言われてもね……」
肩をすくめてから、少しだけ考える。八の字に下がった眉で情けない表情をしている奈津実を一度ちらりと見てから、何とかなるよね、と頷いた。
「ね、なっちん。何か飲みたくない? 私、ごちそうしちゃうよ?」
「え?! ホント? やたー! お姉さん太っ腹ー。……って、いいの? 見つかったらヒムロッチに怒られると思うよー」
途端に元気になった奈津実だが、ふと思い直したように眉を寄せる。
「見つかったらね。でも、見つからなきゃ平気でしょ?」
悪戯っぽく片目をつぶって見せると、奈津実は吹き出した。
「じゃあ、ミルクティーがいいな。途中でヒムロッチが見回りに来たら、トイレ行ってるって言っとく」
くすくすと笑いながら言う。明日香は了解、と頷いてそっと部屋を抜け出した。背中に奈津実の「健闘を祈る」という声援を受けながら。
* * *
自販機が見つからず、明日香はうろうろと違う階を彷徨っていた。
その間にわかった事というと、どうやらこのホテルには他の学校の生徒も修学旅行で泊まっているらしいという事だった。
浴衣姿で談笑している他校の生徒達をちらりと横目で見て、明日香は嘆息する。
「何でうちの学校はジャージなのかなぁ」
確かに動きやすさは抜群だし、汚れても気にならない。でも。
「浴衣のほうが絶対良かったよ……」
思い切りはばたき学園の生徒だとわかってしまうこの姿は、流石にちょっと如何なものかと思う。─恐らく、教師の狙いはそこなのだろが。
「あ、あの!」
しょぼくれて歩いていると、突然、誰かに呼び止められた。明日香はその声に聞きぼえがあって、まさかと思う。
ドキドキしながら振り返ると、そこには、よく駅前で遭遇する彼の姿が予想に違わずにあった。
名前も知らない、明日香の片想いの相手。その彼が少し照れたように微笑んでいた。
「こんばんは。あ、あの、偶然ですね」
「本当だね。ふふ、こんばんは。あなたも、修学旅行?」
嬉しくて、緊張して、少し声が震える。気付かれないように平静を装いながら尋ねると、彼はこくりと頷いた。
「はい。修学旅行です。あなたもそうなのですね」
「うん、そう。ええと、この辺にジュースの自販機ないかな?」
「自販機……。ああ、僕、わかります。こちらにありました」
言って彼はゆっくりと数歩足を進めて、それから振り向いた。
明日香はそれが案内してくれる意だと気付いて、慌てて駆け寄る。すると彼はふわりと笑った。
「いつもと反対ですね」
「???」
何がだろうと思って瞬きを繰り返すと、彼は言葉を継げる。
「僕はいつもあなたに教えてもらってばかりです。でも、今日はあなたに僕が教える事が出来る」
「うん」
「それが、とても嬉しいです」
歩幅を合わせてゆっくり歩いてくれている彼が「いつもありがとう」なんて言うので、明日香は慌てて両手をぶんぶんと振った。
「そんな、全然、私たいした事してないし!」
彼の柔らかい声、優しい顔に鼓動が早くなっていくのが解る。何処の誰かも知らないのに、どうしてこんなに惹かれるのだろう。明日香は何だか泣きたいような気持ちになって、きゅ、と唇を結んだ。
「着きましたよ」
言って彼が指す方に、自販機が三台。
「あ、ありがとう!」
明日香が慌てて感謝の言葉を告げると、彼は照れたように早口でmy pleasureと返した。
硬貨を自販機に入れながら、こっそり彼を窺ってみる。
さっきみたいに時々英語が出たりする所から、帰国子女か何かだと勝手に思っていたけれど、よくよく考えると謎だらけだ。知りたいけれど、聞いていいものか解らずに、明日香はミルクティーのボタンを押した。がこん、と缶が滑り落ちてきた音が響く。
「何か飲む?」
腰を曲げて取り出し口からそれを取り出しながら、彼を見上げた。
「いえ、僕は……」
「─先生だ」
何かを言い掛ける彼の後方に、担任の姿を見つけて明日香は青くなる。こんな所を見つかったら何を言われるか、想像に難くない。
「隠れなきゃ……」
幸いまだ氷室はこちらに気付いていないようだ。明日香は焦りながらもきょろきょろと辺りを見回した。だけど、良い隠れ場所は見つからない。
「あの人に見つからないようにすればいいのですね?」
声をひそめて彼が問う。縋るような目で頷くと、彼は明日香を壁際に寄せ、Excuse me a momentの言葉の後に抱きしめた。
「これで彼からは見えないと思いますから」
そっと耳元で囁かれた言葉に、明日香はただこくこくと頷く。こんな風に男の子に抱きしめられたのは初めてで、どうしていいのか解らないぐらいにドキドキしてしまう。そんな場合じゃないと頭では解っているのに、鼓動は早くなる一方だ。
「来ます」
ぽつりと呟いた彼に、明日香は慌てて耳を澄ました。確かに氷室の規則的な靴音がはっきりと聞き取れる。今まさに、この前を通るのだろう。
他にどうする事も出来ない明日香は、祈るようにきつく目を閉じた─。
遠離った靴音がやがて聞こえなくなって、明日香は恐る恐る目を開く。
すると目の前には、彼の笑顔。
「見付からなくて良かったですね」
体温が急激に上がっていくのを感じながら、頷く。
「う、うん。ありがとう。……ええと。あのね、もう放して貰ってもいいかなぁ?」
意を決して、でも真っ正面から見れなくて少し視線を外して言うと。彼はひどく慌てて、身体を放した。
「す、すみません!」
「ううん。助かっちゃった。本当にありがとう。……えと。私、そろそろ帰るね。ほんとありがとう。じゃあ、またね」
ぎくしゃくしながら手を振って、踵を返して走り出す。逃げ出すようなこの態度に呆れられたかな、と思いつつも足は止まらない。
明日香は少し温くなってしまった缶を握りしめて、ホテル内を疾走した。
* * *
「お帰りー。ヒムロッチ大丈夫だった?こっちはバッチリオッケーだったよー。って、何アンタどしたの?」
部屋に入るなりへたり込んだ明日香を見て、奈津実が首を傾げる。
「ごめん、遅くなっちゃったね」
「それはいいけど。……顔、真っ赤だよ? さては何かあったな」
ニヤリと笑う彼女に、どう説明したものか悩んでいると、ドアをノックする音が響いてきた。
「氷室だ。レポートの状況を確認に来た。ドアを開けなさい」
二人は顔を見合わせて互いに胸を撫で下ろすような仕草をして、それから小さく笑う。
「はい。今、開けます」
「ばっちり進んでますよー。 もう先生見てびっくりって感じ」
近くにいた明日香がドアを開けると、氷室が「失礼する」の言葉と共に部屋に入ってきた。
「見て驚くかどうかは私が決める事だ。藤井」
冷ややかに言葉を返された奈津実は、ハイハイそーですね、と投げやりに応えて氷室に更に小言を貰う。
明日香は困ったように笑いながら、ミルクティーの缶を急ぎ隠した棚の方に視線を向けて頬を両手で覆った。しばらく、熱は引きそうにない。
* * *
修学旅行を終え、家に着いた明日香の元にはメールが届いていた。
それは一足先に帰ってきたらしい千晴からのもので。読んでいてこちらまで楽しかった気持ちが伝わってくるような、そんな文章だった。
『とても楽しい旅行でした。
でも、少し時間が足りなくて行きたい所を全部、 回る事は出来ませんでした。
また今度ゆっくり京都と奈良には行きたいです。
明日香には会えませんでしたが(とても残念です)
僕は気になる女の子に偶然会うことが
出来ました。今でもその時の事を思い出すと
どきどきしてしまいます』
メールの締めにはこんな事が書かれていて、明日香は思わず笑ってしまった。まるで自分と同じようだと思ってしまったのだ。
返信のボタンを押して、キーを打ち出す。
『私も修学旅行楽しかったよ。
あっという間だったなぁと思ってます。
千晴くんも良い事があったんだね。
実は私もあったの。同じだね。─……』
「千晴」と「明日香」だと互いに知るのは、もう少し先の話─。
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