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彼と彼女と卵サンドと

 夜中に降った雨を纏った窓ガラスが、差し込んだ光に反射して煌めく。それに教室の戸を引き開けた格好のままで、高村正子は一瞬だけ目を細めた。まだ誰もいない教室は静謐な空気で彼女を迎え入れる。
 鞄を持ち直して自分の席へ足を向けた彼女だったが、ふと近づいてくる廊下からの足音に気付いた。自分以外にこの時間に登校するクラスメイトがいるなんて珍しい。そう思いながらゆっくりと肩越しに振り返った。合わせたように教室の入り口で足音がぴたりと止まる。
「委員長……」
 朝日を背に思わずと言ったように呟いたのは、クラスメイトで友人の木下真希だった。
「おはよう。今日は随分早いのね」
「ん、何か目が覚めちゃって。委員長はいつもこれぐらいの時間?」
 一番後ろの自席に鞄を置いた真希が少し首を傾げる。それに頷いて高村は苦笑した。
「朝練があるわけじゃないのに変でしょ。ギリギリだと落ち着かないってだけなんだけどね」
「別に変じゃないって。委員長らしいよ。ね、それだと今まで木戸先輩に怒られたことなんてないんじゃない?」
「それはまあ……って、あなたあるの?」
 驚いて彼女の顔を凝視する。真希はあっさりと首を縦に振った。少しだけ括った髪の毛が一緒に動く。
「えーと、冬は寒くて布団から出られないもんだから」
「アウトが多いのは知ってるけど、ほんとにアウトだったのね……」
 愕然と呟くと彼女は誤魔化すように笑った。その目が何故か赤い。よく見るとくまも出来ている。
「木下さん、もしかしてあまり眠れてないんじゃない?」
 視線に感づいたのだろう、慌てたように真希は目の下を手で覆った。
「あはは、まあ、ちょっと。でも大丈夫だから――あ、わたし花の水換えてくるね!」
 言うが早いか教卓へ駆け寄って花瓶を掴んだ彼女は返事を待たずに廊下へと飛び出す。高村は唖然とその後ろ姿を見送った。
「……聞かれたくないってことかしら」
 誰にともなく呟いて、窓の外へと視線を遣る。朝練に励む生徒達が散らばる校庭の上を、冬らしい淡い色をした空が広がっていた。

*

 チャイムが鳴り響き、四時間目の授業の終わりを告げる。化学担当の教師である吊木は、板書をしていた手を白衣の裾で拭った。そうして「次はこの続きから」と呟くように締め括る――教室はそれを境にざわめき始めた。昼休みの始まりである。
さっきまで走らせていたシャーペンをきちんと筆箱にしまってから、高村は少しだけずり下がった眼鏡を指先で押し上げた。
 あれから真希と話す機会がないまま過ぎてしまっている。気にはなるものの、今朝の様子に踏み込むのは少し躊躇われた。どうしよう、そう思って後方に視線を遣る。
「真希」
 廊下から声が上がったのは、高村がぼんやりとした彼女の姿を完全に捉えたのとほぼ同時だった。しかし、その聞き覚えのある声に反応したのは、呼ばれた本人以外だったようである。当の真希は身じろぎ一つしていない。
「おーい、真希?」
 再度呼び掛ける声に高村は嘆息して席を立った。目の前まで移動してひらひらと視線の先で手を振ってみる。
「え、あれ? もしかして授業終わってる?」
「それもやっぱり気付いてなかったのね……」
「ごめん、目開けたまま寝てたかも」
 軽く笑った彼女に高村は諦めたように肩を竦めて入り口のほうを指し示した。
「……お兄ちゃん」
 つられるようにして視線を向けた彼女が小さく呟く。ようやく認識したようだ。それに気付いたのだろう、彼女の兄である木下真人は小さな包みを掲げて見せてくる。弁当のようだ。わざわざ届けに来てくれるなんて羨ましい限りである。高村はそう思ってからはたと疑問に思う。
「受け取りに行かないの?」
「あ、うん、そうだね」
 席についたままだった彼女は曖昧に笑った。いつもだったら飛んで行きそうなものなのに、やはり何かがおかしい。ゆっくりと立ち上がって兄の元へと向かう姿を思わず凝視してしまった。
「ありがとう。わざわざいいのに」
「いや、購買行くのは大変だろう? それでな、真希。良かったら今日は兄ちゃんと一緒に食べないか?」
「ええと、ごめん、委員長と約束してるの」
 聞こえた言葉に目を見開く。約束をした覚えはなかった。丁度重なった視線の先で真人もそれを察したように眉を寄せる。しかし、すぐにそれは困ったような微笑みに変わった。
「――そうか、じゃあまたな」
 どうやら追求はしないらしい。彼はあっさりと引き下がった。
「委員長、ごめん」
 背中がすっかり見えなくなった所で振り返った彼女が兄と同じように笑う。どうしようもない。高村は緩く頭を振ってみせてから、腰に片手を当てた。
「私は烏龍茶にしようかな。木下さんは?」
「え?」
 疑問符を浮かべて首を傾げた彼女に指を突きつける。
「お昼、一緒に食べるんでしょう?」
 数回の瞬きの後に破顔した彼女はイチゴ・オレと宣言した。

*

 薄い雲が散らばった空を仰ぐ。日に日に風が冷たくなるこの時期は、屋上で昼食を摂るものは多くない。今日に至ってはゼロである。貸切状態だ。
「あ。」
 隣に座った真希が小さく声を上げたのに高村は上げた視線を元に戻す。開けた弁当箱を覗き込むとたまごサンドが隙間無くぎっしり詰まっているのが見えた。
「好物なのね?」
 確認するまでもなかったが、彼女はそれにしっかりと頷く。
「昔から大好きなんだ」
「いいお兄さんじゃない」
 言って、自販機コーナーで買った烏龍茶の紙パックにストローを差した。そうしてから高村も自分の弁当箱の蓋を取る。今日は助六弁当だ。
「別に喧嘩したわけじゃなさそうね。――あ、ごめん。詮索しちゃった。言いたくないなら言わなくてもいいわよ」
慌てて付け足した言葉に真希はくすくすと笑う。
「委員長ってお人好し」
「そうかしら」
「絶対そうだって」
 言い切った彼女はたまごサンドを手に取った。そしてじっとそれを見つめる。
「……最近、お兄ちゃんのことが解らないんだよね」
「どういう事?」
 さっぱり解らない。いなり寿司を半分に割りつつ聞き返すと真希は少し瞳を揺らした。
「前までは何でもお互いに話してたんだよ。何でも知ってるって思ってたの」
 そこで間を取るようにたまごサンドを口に運ぶ。ゆっくり味わうように食べてから、彼女はこくんと飲み込んだ。
「木戸先輩とあんなに仲が良いなんて知らなかったし、隠し事されたりなんてなかった。昨日なんかいきなり部屋を追い出されたし……」
 沈んだ声音で続ける真希に高村は首を傾げる。
「それに怒ってるってわけじゃないんでしょう?」
「うん。でもホントは自分でもよくわかんない」
 成る程と頷いて、いなり寿司を頬張った。甘辛さが程良くて美味しい。
「あーもう、何か昨日からずっとすごいもやもやするよー」
「もしかして、寝不足ってそれが原因なの?」
 視線だけ向けると彼女は言葉に詰まった様子を見せた。どうやら当たりらしい。頭痛を覚えて高村はこめかみの辺りを押さえた――その一瞬、目の端で影が動いたのを捉える。
「!」
「委員長、どうかした?」
きょとんとした真希に緩く頭を振った。慌てて高架水槽の裏に引っ込んだようだったが見間違う筈無い。でも、今の所は知らぬ振りをしたほうがいいのだろう。高村は漏れそうになる嘆息を必死に飲み込んだ。代わりに無理矢理言葉を繋げる。
「えーと、要するに木下さんは寂しいんじゃないの?」
「へ?」
「自分では解らないみたいだから言うけど、怒ってるというより拗ねてるって感じ」
 びっくり顔の彼女は一拍後にそれを耳のほうまで赤く染めた。
「な、だって、そんな!」
「聞いてたらお兄さんのことが本当に好きなのが伝わってきたしね。だからこその、もやもやなんだと私は思うけど」
 少し意地の悪い笑みが浮かんでいるのを自覚しながら問い掛ける。
「ね、今、言われてみればそうかもって思ってるでしょう?」
「……うん」
 がっくり肩を落として小さく頷いた真希に高村は思わず吹き出した。
「ちょ、委員長! 笑うことないじゃない!」
「そんなこと言われても」
 つい滲んだ目元の涙を指先で拭ってから、高村はゆっくりと呼吸を整える。そして、肩越しに振り向いて呼び掛けた。
「安心しました? 木下先輩」
「――バレてたとは思わなかったな」
 苦笑混じりの呟きと同時に高架水槽の影から真人が姿を現した。
 気付いていなかった真希は大きく口を開けたまま固まっている。余程驚いたらしい。
「ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど、つい気になって。こら、お前も同罪なんだから隠れてないで出てこいよ陽介」
「よ、陽ちゃんまで!?」
 彼女の慌てた声に違和感を覚える――何故かいつもと呼び方が違っていた。気付いたそれに口を開き掛けて、止める。何らかの事情がここにもあるのだろう。高村は素知らぬ振りを通した。
「ごめん、真希。真人兄に無理矢理……痛っ」
「何が無理矢理だ。嘘つくな」
 額を抑えた日向を真人が睨み付ける。先ほど素早く叩いた手が二発目の構えを見せていた。
「どっちもどっちだと思うわ」
 呆れて思わず呟くと真希が同意するように何度も頷く。
「本当にごめん。真希の様子がおかしかったから知りたかったんだ。兄ちゃんのこと怒ってるのかなって」
 心底反省している表情の真人に彼女も怒りを解いたようである。肩から力が抜けるのが伝わってきた。
「それだったらわたしだって知りたいよ。昨日何で部屋から追い出したの?」
「そ、それはその、見られたらまずい物があったからというか……」
 真希の言葉に露骨に真人が狼狽える。隣に立っていた日向が察したようにニヤニヤした。
「それは仕方ないよな。真人兄も男だし」
「ば、馬鹿陽介!」
「『男だから』?」
解っていないのは真希だけである。高村はどうでもよくなって会話から外れて食事を再開した。やっぱり今日のいなり寿司は美味しい。
「あ、ええと、真希も見られたら恥ずかしいものとかあるだろう? 例えば点数の酷いテストとかポエムとか……」
「真人兄、ポエムなんか書いてるんだ?」
「物の例えってやつだ! いいからお前は黙ってろ!」
「もう、お兄ちゃん達の言ってることはさっぱり解らないよー」
 困ったような彼女の呟きは言い争う声に紛れて屋上の空気に溶けた。

*

「……委員長」
 呼ばれた声に驚いて振り向くと、声の通りに真希が居た。まるで昨日の朝と同じシチュエーションに高村は苦笑する。
「おはよう。どうしたの、今朝も早いのね」
 昨日の騒動で彼女の問題は片づいた筈なのに。そう思って首を傾げると、彼女は顔をくしゃりと歪ませた。一気に距離を縮めて高村にしがみついてくる。
「色々反省して今日は早起きしたの」
「それは良いことね」
 気圧されつつも うんうんと頷くと彼女は違うというように頭を何度も振った。
「お兄ちゃんを起こしに行ったら足の間に何か、みょこってした物体が……っ!」
 足の間とは何だろうと考えて、はたと気付く。顔が一気に熱くなったのを感じた。
「待って! そういう話は聞きたくない!」
 耳を塞ごうと藻掻いたが、がっしりしがみつかれた腕はそう簡単に外れそうもない。
「ねえ委員長、どうしよう! 起きたお兄ちゃん突き飛ばして逃げて来ちゃったよー!」
「知らないわよ!」
 まだ殆ど登校する生徒のいない校舎に高村の悲痛な叫び声が響き渡る。