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オトナになる方法

いつもよりぎこちなく微笑んでみせた彼女を思って、葉月は自分の嫉妬深さと独占欲の強さに溜息を吐いた。
傷付けたくなんかなかったのに、どうしてこうも色々な物が見えなくなるのだろう。彼女が自分を大切に想ってくれてるのは知っているのに、気付くと何かを間違えている。
──こうして、今日みたいに。
またやった、と思っても今更だった。笑顔を曇らせたのは葉月自身だ。
「余裕 全然ない、俺……」
きちんと大人になれれば、それは変わるのだろうか。そうすれば彼女は側でずっと笑っていてくれるだろうか。
その答えは出ないまま、葉月はその場で沈み込むみたいに眠りへと落ちる。

*

「おーい、こんな所で寝てたら風邪引くぞー」
肩を揺すられて瞼を持ち上げると、見知らぬ男が目に映った。ぼんやりと葉月は彼を見てから、次いで辺りに視線をやる。見慣れた公園が、すっかり暗い色を纏ってそこにあった。
「ああ良かった。起きてくれなかったらどうしようかと思ったよ。全く、この時期のこの時間に外で寝るなんて大物だな、葉月くん?」
「……どうして」
呼ばれた自分の名前に葉月は改めて男を見遣る。彼はそれに気付いて肩を竦めた。
「知ってるよ。ああ、でもキミがモデルやってたからじゃないんだ実は」
要領の得ない説明に眉を寄せると、彼は悪戯っぽく笑う。だが、次に口にしたのは全く別のことだった。
「身体、冷えてるだろ?時間あるんだったら、ちょっとついといで。お兄さんが一杯ご馳走するから。あ、別に変な所に連れ込む気はないから安心して。俺、近くのバーでマスターやってる者なんですよ」
路地裏の方を指す親指と、人懐っこい笑顔を見比べる。初対面なのに不思議とそう感じさせない大らかさが彼にはあって、怪しんだり疑ったりする気にはなれない。葉月は自分でも意外なぐらいにあっさりと頷いて、その場から立ち上がっていた。
「決まり。じゃあ、行こっか。丁度今日はキミも知ってる奴が来てるんだ。ソイツを見れば、すぐにキミの謎は解けると思うよ」
楽しそうにそう言ってから持っていた荷物を抱え直す。その笑顔に釣られたみたいに足を踏み出した葉月に、彼はしかし思い出したように付け足した。
「あー、でもある程度の覚悟はしておいた方がいいかもな。アイツの事だから一言目から説教って可能性はなくもないって言うか……」
「……説教?」
首を傾げると彼は苦笑だけで応えて、葉月の先を歩き出す。

*

少しくたびれた感じのするドアを潜り抜けて店内に入ると、まずグランドピアノに目が奪われる。若干光量を落とした照明の中でも堂々としているそれを中心にしてテーブルが並び、奥の方にバーカウンターがあった。広くはあまりなかったが、それでも何故か窮屈さは感じられない。居心地の良い空間がそこにはあった。
「ただいまー。店番ご苦労」
「誰が店番だ。全く、材料の在庫を切らすなど店主としてあるまじきことだ。そのいい加減さは早急になんとかすべきだとは思わないか、益田」
彼が軽く声を上げるとカウンター席の一番端に座っていた男が振り返りながら小言をぶつけてくる。憮然としたその顔に葉月は目を見開いた。
「氷室、先生……」
「葉月?何故君がここに……」
氷室も少し驚いたように葉月を見、怪訝な眼差しを隣の男、益田へと移す。
「そこの公園で寝てたから拾ってきたんだ」
あっさりとそう答えてから、抱えた荷物を手にカウンターへと入っていく。氷室は一瞬微妙な表情を浮かべ、しかしすぐにそれを消すと葉月へと視線を戻した。
「また『眠かったから』か、葉月」
「はい、たぶん」
「相変わらず君は私の理解を超えている……。いや、何でもない。元気そうで何よりだ」
微かに口元を綻ばせた元担任に葉月は目を瞬かせる。
「解っただろ。どうして知ってたか」
奧の厨房へ行っていたらしい益田はエプロンを着け、すっかりマスターの格好になっていた。
「腐れ縁ってやつでね。コイツは昔からの友人、いや、そんな上等のものじゃないな。悪友?なあ、何て言えばいいんだ?」
「俺に聞くな。何だっていい」
言葉以上に二人の間の砕けた空気から相当つき合いが長いと知れる。
「滅多に仕事の事は口にしない零一が面白い生徒が居るって酒飲みながら言ってたから記憶に残っててさ。他の子と違ってキミは雑誌で顔は見たことあったし。そんなわけで、つい声を掛けてしまいました。悪かったね、驚かせて」
「いえ……」
緩く頭を振って見せると、彼はにっこりと笑って席を指し示した。
「約束通りご馳走するから座って。コイツの隣じゃくつろげないかも知れないけど」
鋭く睨み付ける氷室をものともしないでメニューを広げる。
「何がいい?」
「待て、益田。アルコールは禁止する」
「何でだよ。生徒さん達ももう二十歳の年だろ?」
「まだだ。例えあと数日でも彼はまだ十九歳だ」
きっぱりと言い切った氷室を葉月はまじまじと見つめた。
「そんなこと、どうして……」
「担任が生徒の情報を知らないでは話にならないだろう」
当たり前みたいに告げてくるが、一般的に一人一人の誕生日を覚えるまではしない。しかも卒業して何年か経っているのに、それが関係ないみたいな口振りに葉月は何だか嬉しくなった。
「そういう所はすごい零一らしいよな」
苦笑混じりに呟いた益田はポットから注いだ湯を使って手早くホットレモネードを作る。出来たてのそれを耐熱容器に注ぎ入れて、二人の前に置いた。
「どうぞ。体が温まるよ」
「……ありがとうございます」
湯気の立つそれに口を付けると程良い甘みと酸味が広がる。
「美味い……」
「そう?なら良かった。本当は良い酒が入ってたからそれを出したかったんだけどね。オトナになったらまたおいで。酒の味を覚えるなら是非当店カンタループで。」
調子の良い益田の言葉に呆れたような氷室の嘆息が重なった。葉月はそんな二人を眩しげに見つめる。
「どうすれば……大人になれますか」
「へ?」
唐突な問い掛けに素っ頓狂な声を上げたのは益田だけだった。氷室は平静なまま葉月を見返す。
「年齢的に、ではなく精神的に、という意味だな?」
「そう、です」
「──残念だが、それについての明確な答えはない。だが、私なりの解釈はある」
黙って先を待つと氷室は僅かに苦笑した。
「大人でないと自覚した時。そして、それをどう補うか考えた時だ」
「なあ、零一。それって矛盾してる気がするんだけど」
「そうだ。だが、そう考えている限り、人は常に大人であろうとしている。つまりはそういうことだ」
「つまりはって言われてもなぁ……」
こめかみ辺りを指先で突いて益田は低く呻く。
「大人でない……。先生も?」
呆然と呟いた葉月の言葉にあっさりと頷きが返ってきた。
「大人になるのは酷く難しい。まだまだ私も未熟だ」
「未熟も未熟、大未熟。全然大人なんかじゃないもんな、零一」
「お前にだけは言われたくない」
「ほら、そういう所とか」
「と、とにかく!努力を怠らない事だ。以上!」
咳払いで締めた教師に葉月は目を瞬かせる。やがてそれは微笑みに代わり、ホットレモネードと同じようにふわりと身体を温めた。
「はい……がんばります」

*

またおいでの言葉に送り出されて、葉月は数時間ぶりに外の空気に触れる。少し欠けた月が空に昇り、柔らかな光を降らせていた。
少し躊躇ってから、それでもやっぱりポケットから携帯電話を取り出す。無性に彼女の声が聞きたかった。
一番よく呼び出す番号を電話帳から呼び出して、目を閉じる。
意を決するみたいにボタンを押すと、程なくしてそれは繋がった。柔らかな声が伝わってくる。
「……今日は悪かったな。何って……おまえ、傷付けただろ、俺」
ごめんと続けると静かに名前を呼ばれた。葉月は薄く瞼を開けて継ぐ。
「──またきっと、傷付けるかも知れないけど……。それでも、側に居て欲しいんだ、おまえに。……駄目か?」
問い掛ける声が知らず微かに震えた。間が空く前に答えられた是の声に安堵の息が漏れる。
「……良かった。でも、努力する。ちゃんと大人にもなるから」
いつもよりきっぱりした葉月の口調に彼女が不思議がった。それに小さく笑ってカンタループを振り返る。
「ああ。ちょっと、色々あった。でも、秘密。──冗談。会ったら話す。……なんか、酒の味、教えてくれるらしいから。今度二人で行こう」
一度そこで切ってから、葉月はそっと囁いた。
「約束」